友人でドイツ語翻訳者・通訳として活躍する前田智成氏より、東京オリンピック開催によせて、寄稿してもらった。4回ものオリンピックとの関わりから、復興五輪、コロナに打ち勝つなどの題目で取りざたされにくくなっているドーピング、そして、金と栄誉にまみれたオリンピックの問題を、改めて考えるきっかけに。
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オリンピックと私
オリンピックには4大会、仕事で関わりました。学生時代の1998年、長野冬季オリンピックに、ツテを得て朝日新聞の取材班にドイツ語と英語の通訳として参加したのが最初でした。それ以降、2002年アメリカ・ソルトレークシティ冬季五輪、2004年ギリシャ・アテネ夏季五輪、2006年イタリア・トリノ冬季五輪で、記者たちと行動を共にしました。
私の仕事は、メダルが期待される有力日本人選手の外国勢ライバルを追いかけることでした。いちばん思い出深いのは、アテネ五輪の陸上競技、男子ハンマー投げです。2004年8月22日のナイター開催でした。今、なんと夜9時15分開始。メインイベントである陸上男子100m決勝をアメリカのテレビで最高の時間に持ってくるための時間割でした。
ドーピング疑惑
当時、日本は室伏広治選手が注目されていました。長年のライバルたちの、高レベルの投擲(とうてき)が続きます。ただ強豪ハンガリーのアドリアン・アヌシュが試合中盤に力を込めて投げた83m19に対して、室伏選手の最終投擲は82m91で、28cmの差で決着が付きました。記者席は競技場のトラックに近く、わりと平面で競技を見ることができます。ライバルの投擲が続く終盤、確か5巡目くらいに、アヌシュ選手はバッグを肩に平然と競技エリアを後にし、いったん姿を消しました。そして、室伏の最後の投擲が及ばないのを確認するかのように戻ってきたのです。金メダル、ベテランの貫禄でした。
共同記者会見の後、アヌシュ選手に迫って1対1で話を聞きました。「試合の中盤で最高の投擲をして、ライバルを圧倒して試合を決めてしまう。それは経験で身につけた自分にだけできる展開だ。室伏に言っといてくれ」。会見後そのまま室伏選手に伝言すると、表情を変えて「そんなこと言ってたんですか」と言葉に詰まっていました。 翌朝、記者団に激震が走りました。「アヌシュ選手が試合後に提出した尿が、事前のドーピング検査時の尿とは、別人のものと確認されました。よって、ドーピング規定に従いアヌシュ選手の失格が決まりました」。アヌシュは、試合終盤に姿を消した際、ドーピングしていない他人の「清潔な」尿の入ったスポイト状の容器を肛門に挿入していたといいます。メダル獲得後の検査では検査員がトイレの入り口まで立ち会い、何も隠し持っていないことを確認します。その検査で肛門の隠し容器から別人の尿を出し、ドーピング隠匿を図ったということでした。別人の尿が検出されること自体、規定違反です。朝から世界のメディアは、ドーピング担当のIOC委員が「尻に隠した容器から他人の尿を」と話すのを、一生懸命問いただしていました。その後、アヌシュの声を公に聞くことはなく、本人の会見が開かれることもありませんでした。
長らく再開発と建設ラッシュが続いた東京オリンピック。©Tomonari MAEDA
IOCバッハ氏への電話取材
閉会式の後、朝日新聞の記者から「これバッハの携帯番号。電話してドーピングについて聞いてくれ」と指示され、当時はIOC副会長だったトーマス・バッハ氏に電話直撃しました。バッハにドイツ語で話を聞いたのは日本メディアではおそらく私だけだったでしょう。 バッハは当然英語堪能ですが、母語だとやっぱり調子が出るのかいろいろ話をしてくれました。その中で、「IOC憲章の運用を変更する。五輪では、ドーピング発覚時から遡って過去の記録、メダルもすべて剥奪・抹消すると決定した」とのこと。急げ急げと記者に急かされて得たこの発言は、あの時点では日本メディアで報じたのは朝日新聞だけのようでした。
オリンピックが、カネと栄誉の的となってしまってからドーピングは増える一方です。しかし過去に遡ってまで記録を抹消するというのはおかしなこと。例えとして「左手で箸を使ったものは、過去10年に遡って有罪!」という法規が作られたら、近代の法律の成果である「法の非遡及」に、真っ向から対立します。弁護士資格も持つバッハ現会長が、それを知らないはずはありません。
これはIOCだけが決定したことではなく、連動して世界陸連などにも運用されることになりました。その後2007年には、米国短距離のスター、マリオン・ジョーンズも汚れた英雄だったことが発覚し、2000年シドニー大会以降のメダルや記録が剥奪・抹消されました。彼女はずっとドーピング漬けで、検査時に発覚しないよう別の薬物を使っていたことや、クリーンでいる期間を置くことなど、組織的に行われていたことも告白しています。
重量挙げや長距離自転車など、トップクラスはほぼ全員ドーピングしていると発覚した競技もあります。重量挙げは特にひどく、種目ごとオリンピックから排除すると常にIOCから警告されています。今ではトップ選手は全員、世界のどの大会や合宿に参加しているか、そして宿泊先を報告する義務があります。夜中に抜き打ちで検査担当者が訪れて尿を取るのですが、女性でもトイレのドアを開けさせたままにするなどしているそうです。
カネと栄誉のオリンピック
オリンピックはカネと栄誉の祭典です。かつてのソ連・東欧共産圏が威信をかけてドーピングをやりまくっていたように(もちろんそれに対抗する「西側」も)、また事実上世界の陸上から今も追放されているロシアでも、好成績さえ取れれば何をしても良いことになっている。ドーピング実行者は、アヌシュのように表では堂々と強い競技者としての発言をしています。思えば長野五輪でもクロスカントリーで勝利会見をしたロシアの女子選手がいましたが、その後ドーピングが発覚して消えていきました。
日本選手にドーピングが少ないというのは、美徳です。ただIOCも国際競技連盟も、競技をクリーンに保つことで維持したいのは、放映権による莫大な収益や幹部の高報酬が中核にあることは間違いないのではないでしょうか。メディアにとってもオリンピックは視聴率と部数を得られる自動集金システムです。
なんの検証もなく、オリンピックを夢中で消費する我が国ジャパンは稀な存在だと感じます。よく言われることですが、ヨーロッパを中心に多くの国は世界選手権を高く評価しており、中継や報道は五輪と同等またはそれ以上になることも珍しくありません(日本も世界陸上、世界水泳、世界卓球だけは金銭的メリットが大きいからか別枠)。しかし、小池知事や安倍元首相、菅首相が世界選手権に興味があるようには見えません。TOKYO2020 (+1)! 常に進化し続けるドーピング世界の動向を踏まえて注視しましょう。
コロナ禍でのオリンピック強行
ちなみに数日前から、新型コロナウイルスに感染し、入院しています。入院している者として思うのは、今回の東京2020は、国民の分断の象徴として挙行される催しだということです。薄笑いを浮かべた政権与党の面々が、世論の多くが中止を願っても強行して、開幕しました。分断これに極まりでしょう。病院のベッドで静かに過ごせることが辛うじて、精神に良い作用を及ぼしています。
開催1ヶ月前時点で、柵で閉鎖された国立競技場と分断されたその周辺。©Tomonari MAEDA
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<寄稿者プロフィール>
前田智成/ Tomonari MAEDA
ドイツ語通訳・翻訳者
1989年のベルリンの壁が壊れた時代を高校生としてドイツで体験し、ドイツと縁の深い道に進む。ドイツ在住はケルン・ベルリンを中心に通算10年。現在は東京が拠点。
自身のブログ で哲学などの考察を記している。