今年1月。ドイツの大学での筆者の指導教授が亡くなった。コロナ禍でもあり、ミッヒェル先生のお葬式は教会の会堂内ではなく、埋葬される墓の周りで神父による簡単な司式で済まされた。悪天候の中、止まらぬ涙と雨とで私はぐしょぐしょになった。
日本の大学で史学を専攻した私は、卒業後、神奈川県の公立中学校の教員となった。校内暴力真っ盛りのころで、大変な毎日だった。その後、日本でドイツ人と結婚し、こどもが生まれたのを機に、私たち家族はドイツに移住した。自分がよく知っているあの日本の管理教育だけは、我が子に受けさせたくないと思ったからである。結論からいえば、それは「半分」だけ正しかった…
ドイツに来て、ドイツ語をある程度マスターした後、私はデュッセルドルフ・ハインリッヒハイネ大学に、今回は教育学主専攻で博士課程に入学した。私の論文は「日本の禅宗寺院に伝わる修行を、ドイツの教育学の立場から分析する」という内容だった。ミッヒェル先生がこの構想に興味を持って、指導教授を引き受けてくださったのだ。当時、彼は、教育学の教授たちの中で、指導が厳しいことで知られていた。とはいえ、学生たちにはおおむね好意的に受け取られていた。
教育とは民主主義の担い手を育てること
大学に通い始めて、私はあまりに日本の大学の教員養成と異なるので驚いた。日本の大学では教員免許は、教育学が主専攻でない限り、教育原理、教育心理学など一定の単位を取得し、定められた日数の(当時はわずか2週間だった)教育実習を行えば取得できた。日本の職業訓練全体に通底する考え方だが、オンザジョブトレーニングで、実際に教員となってから先輩教師にさまざまな現場の知恵を授けてもらいながら、仕事に慣れていくというやり方である。したがって、大学での学びは、一般的な教育理論と授業のための指導案解説がほとんどだったと記憶している。
ドイツの大学では、その学びの様相がまったく異なっていた。何よりも教授学が先に立ち、まず「何を教えるべきか」という命題に長い時間が割かれる。ヨーロッパにおける教育の歴史、ドイツの過去に対する反省、現実の社会のありよう、人権や学習権の問題、経済格差と家庭格差、移民のこどもたちの包摂、環境問題など、さまざまな視点から、次の世代に何を継承するかを考えさせ、討議する。
その中で大切なキーワードとなるのが「民主主義」だ。教育学を専攻する学生ならだれでも真剣に学び、目指さねばならない目標として語られる。そのうえで初めて、教育方法論が意味をもつのであって、日本の教員養成で一般的な、「導入・展開・まとめ」のような学習指導案の形から先に入る教育方法論とは大きな違いだ。私は何度もゼミの討論の場で「そのやり方では、民主主義は学べないよ」という意見を聞き、その度にこういう言葉を普段着の会話の中で発することのできるドイツの学生たちの、思想のインフラとしての民主主義に感動するのであった。
ことほどさように、ドイツでは、教育の定義は明快で、民主主義の担い手を育てること、それはとりもなおさず、成員がその民主主義社会で自己実現できるための手助けである。だから教育学は絵にかいた餅では何の意味もなく、教育現場で、そして後に社会で役に立たなければならないというのが、ミッヒェル教授の持論だった。そして、そのためには、事前の「練習」が欠かせないということも。
70年代の教育改革
1970年代にドイツの教授学理論の礎を築き、いまだにドイツの教育学に大きな影響を与えている教育学者クラフキによれば、教育の目的は、「自己決定・共同決定・連帯」することのできる人間を育てることである。自分のことは自分で決める、すなわち他者からの支配を受けず、自分で考えて自分で行動できる人間は、むろんドイツのあの戦争への歴史的反省に基づくものにほかならない。そしてそれら個々の人間が社会でともに生きていくために、フェアな方法で何かを共同決定できるようにすること、これが民主主義社会の根本ルールである。その際、社会に必ず存在する弱者としてのマイノリティを包摂する不断の努力が、民主主義では要求される。それが連帯である。
しかもこれらは単なる知識として児童生徒が学校で習うのではなく、自分で実践できるようにしなければならない。つまり、ここに掲げた目標を達成するためには、その道具としてのコミュニケーションが何よりも重要となる。そこで、ドイツの教育では、学校や家庭や社会で、言葉の教育が繰り返し行われる。ミッヒェル先生が、ある日私たちに向かって実に納得できる説明をした。
「こどもたちは、どうやったら泳げるか、ちょっと考えてみてください。いくら学校で教えてもらっても、実際に自分で水の中に入ってその動作をしてみなければ、泳げるようにならないでしょう? 民主主義も同じです。自分で意見を言う、クラスのみんなで話し合って何かを決める、こういうことを学校で何度もやってみて初めて、将来民主主義社会で生きていけるようになるのです。」
だから、ドイツのこどもたちは小さい頃から自分の意見を表明するようしつけられているし、よく質問する。教育が民主主義社会の下支えをしているというのが、ドイツにいると実感できるのだ。
ところで、ミッヒェル教授の個人史が、ドイツの学校教育史と重なっているのは興味深い。彼はゲルゼンキルヘンという、ルール工業地帯にある炭鉱町の労働者家庭に生まれた。ドイツの教育制度では、小学4年の後、大学進学コースのギムナジウム、中堅事務職コースの実科学校、手工業職人コースの主幹学校の三つの進学先のうちの一つを選択する。今でも基本的にこの形は残っているが、社会全体が高学歴志向となり、主幹学校はほとんど姿を消した。現在では、教育格差への批判からこの三つの学校を統合した形の統合学校も存在する。
さて、小学校のときのミッヒェル先生の担任は、「この子は頭がいいからぜひギムナジウムに行かせてほしい」と、何度かの家庭訪問の末、渋る母親を説得し、やっとお許しが出たのだそうだ。彼が大学で教育学を学んだのは、いわゆる「68年世代」(詳しくは「ドイツ、68年の学生運動が遺したもの~今見る社会を遡る~」参照) と呼ばれるドイツの学生運動の時代。卒業後、彼は故郷ゲルゼンキルヘンの小学校で教員となった。だから、ミッヒェル教授の講義は、そのころの経験に裏打ちされていて、机上の空論ではなかった。
彼の語ったエピソードを一つ紹介しよう。ある日、遠足で動物園にこどもたちを引率していったミッヒェル先生。「では、ここで解散して自由行動にするから、みんな3時までにここに戻ってきなさい。」と言いおいて、他の教員とお茶を飲みに行った。時間になって元の場所に戻ってみると、こどもたちは全員そこにいた。実は誰もその場所から動かなかったのである。というのも、時計を持っている児童が誰もいなかったから。家庭にお金がなくて、小学生は時計を買ってもらえないという視点が教師に抜け落ちていたのだという失敗談。ゲルゼンキルヘンは、貧困層も多い地域だったから、なおのこと、社会への包摂というのが彼の教育学では強く意識されていた。ちなみに、「万人の教育」というのは、彼の専門であったボヘミアの教育学者コメニウスが終生追求したテーマでもある。
その後、彼は自分の指導教授に呼ばれて大学に戻り、研究生活の後、教育学の教授となった。まさにその頃は、学生運動に携わった学生たちの多くが根底からのドイツ社会の変革を志して、教師として学校に入り、清新な教育理論の実践を始めた時代。ドイツ社会は、これらの人々の地道な努力と、それを理論的に裏付ける教育学によって、戦後長らく残滓としてあった、たやすく権威に従ってしまう態度を一掃し、今見る「人々がモノ言う民主主義社会」に変えたのである。これはまさに、70年代初めの教育改革、ひいてはあの学生運動の成果に他ならない。
このように書いてくれば、ドイツの学校はさぞやバラ色に輝いて見えることだろう。が、しかし、現実は必ずしもそうでないところが問題なのだ。それは皮肉にも、これらの教育とは真逆の日本の学校教育を受け、その現場で仕事をしていた私にこそ明らかなのかもしれない。
(後編に続く)
<初出:「ドイツに暮らす⑨」、『現代の理論』、現代の理論・社会フォーラム、2022年秋号、許可を得て転載、加筆・写真変更。最終更新2022年11月1日>