ヘルガの述懐
ドイツで実際に法運用の現場に身を置いている人間は、法治国家であることをどのようにとらえているのだろうか。私には87歳のヘルガという親しい友人がいる。彼女はデュッセルドルフの元上級検事官。ドイツに女性の法曹家がほとんどいない時代から、彼女の母と同じ法律の専門家という職業に就いてその道を歩んできた。
本稿を書くにあたって、彼女に小さなインタヴューを行い、特に女性の視点から法治国家としてのドイツについて話を聴いた。以下に内容を記す。
― ヘルガを知らない読者のために、まず簡単に個人史を語ってほしい。
私はケルンで生まれた典型的なケルン人だ。ただし、裁判官だった父の赴任地であるチェコ(当時はドイツ支配下)に家族で移住、そこの学校に通ったので、その文化からも大きな影響を受けている。
その後始まった戦争のため、父は軍隊に送られ、私たち3人の子どもと母だけが残された。結局、ドイツの敗戦とともに、子どもたちだけで大変な苦難の旅の末に、ケルンに戻ってきた。昔住んでいた家は空襲で破壊されていたので、その後、合流した母と一緒に母の両親の家に住むことになる。
1955年に私はボン大学に入学した。大学では、専攻は法学であったけれど、「学問の自由」をおおいに堪能したと思う。朝、大学に行って、出たい教授の講義に出る。歴史、美術、教育学…。
私は、さまざまな分野に興味をもったし、アメリカや他のヨーロッパ諸国から来た教授がたくさんいて、みんな英語で講義をしていた。フライブルクやケルンの大学にも行ったり…。
そしてともかく、法学専攻課程を修了して、法務研修生となる。その研修に3年半かかった。この間に、各種法律の基礎知識を学んだ。そして最終的に司法試験に合格して、その後博士課程に進んだ。同時に結婚もして、こどもも生まれた。子育ての傍ら、「ラインラント法制史」という題名の博士論文を仕上げるのは本当に容易なことではなかった。それも完了した後、検察官となった。
当時、女性にはかなり差別待遇があった。1971年には、なにしろドイツ全体で、女性検察官はたった4%しかいなかったのだから。
今ではこれが50%を超えている。ただし、それは、次の理由による。弁護士は多額の収入が約束されており、そのなり手は男性が多い。それに対して検察官を女性が多く占めるというのは、検察官は公務員であり、病休や育休などが自由に取得でき、かつその間は給与も支払われるので、弁護士よりも収入は少ないが、妊娠したり、子育てをしたりする女性には有利で、安定した職業なのだ。
ところで、当時、女性検察官には適切な訓練を施すメンター(注:Mentor、指導者、助言者)が不足していた。私は運よく、少し早くから同じ法曹界でキャリアを積んでいた夫と知り合い、彼の指導を受けることができて、ドイツ中部ゲッティンゲンの総合検察庁に移動し、首席検察官となった。それにしても、女性ならではのさまざまな職場の難しさはあった。
女性と法
― 法律家として生きてきたヘルガの印象に残っているエピソードとは。
ドイツ基本法(憲法)の第二項には、「なんびとも、性別、出自、人種、言語、出身国、信条、宗教または政治的信条を理由として、差別されたり、優先されたりしてはならない。また、なんびとも、その障害を理由として差別されない。」と書かれている。つまり、男女平等がうたわれているが、この項目を入れるに当たっては、エリザベート・ゼルバートという女性政治家の大きな闘いがあった。
彼女は、社民党の議員で戦後、憲法制定議会の数少ない女性の一員だった。もちろん、最初はこのような一文はまったく顧みられず、男性議員は皆反対した。そこで、この条文を憲法に記載させるために、当時彼女はあらゆる女性団体に手紙を書き、可能な限り請願を書くように促したので、彼女らからの手紙が連日議会に山のように届いた。私の属していた女性法律家協会にもその手紙が来て、これは協会内で大きく取り上げられた。
私の母は元法律家で、この協会に属していたが、旧式な考え方の持ち主で、「女性は男性より一歩引いた存在であるべき」だと思っていたので、この運動に反対の立場だった。そして、私にこの男女平等に反対するよう仕向けた。私は、もちろん賛成だったが、母は私が賛成票を投じたことは知らなかったと思う。
しかし、最終的にゼルバートの熱心な努力が実を結び、この法の枠組みという保証のもとで、男女平等が明記されることになったのだ。
民主主義と法治国家
― ヘルガにとって、法治国家とはどのようなことを意味するか。具体的に説明してほしい。
今日という時代、私たちはさまざまな出来事を体験しているが、メディアの報道などを見ていると、必ずしも民主主義というのは皆が一致して理解しているとは思えない。人々の意識を、国家が一つの民主主義という方向性を持つように取り戻すことが重要だ。この明確な基準に照らし合わせ、判断し、価値を持ち、予測して行動できるようになること、そしてどこでどのようなことが行なわれても、こうして作られた法律を維持すること、これこそが法治国家の核心というものだ。
一つの思い出を話したい。1955年だったと思う。大晦日に、警官たちがケルンの交差点で交通整理をしていた。すると、たくさんの市民がかけより、彼らに花束やワインを渡して彼らの労をねぎらった。
「あなたたちがいるから、こうして私たちは安心して法に守られているのです。その喜びを伝えたくて。」と口々に言った。今の時代、このようなことはとても考えられない。ただ、その「予測可能性」というのが、当時どれほど大切であったか、またその民主主義の下支えをしている警察という存在について、今日、私たちは振り返ってみる必要があるのではないか。
ヘルガは、このような警察のありかたは隔世の感があると言ったが、私はつい最近、興味深いことを経験した。デュッセルドルフにある先の戦争のための追悼記念館を訪問したときのことである。ここは、基本的に強制収容所に送られ虐殺されたユダヤ人らの展示が主体だが、そればかりではなく、ナチスに抵抗した人々、その一方で、熱狂的なヒトラーユーゲントだった人、さまざまな庶民の個人史の紹介から成る。
その日は、先生に引率された中高生グループがいた。だが、それとは別に、見るからに屈強な男たち10人くらいの集団がいた。みな異様に背が高くたくましい体つきをしており、神妙な顔で、博物館員の説明を聞いている。私は、思わず聴き耳を立てた。この人たちって誰なのろう。なんとそれは犯罪捜査課の刑事たちだった。彼らが、こうして権力が暴走した過去を学んでいるというのも、法治国家を維持するための大切な土台とも言えるのではないか。
最近やや頻度が減ったような気もするが、ドイツ人がよく挨拶で使う言葉に、「Ist bei dir alles in Ordnung?」という言葉がある。直訳すれば、「君のところでは、すべてが秩序の中にあるか?」という意味で、「生活、うまく行ってる?」という程度の問いかけである。こどもが大人にそう言ったりもする。
秩序は、「決まり」のもとに、すべての人が平等に扱われ、自分の権利を十全に行使して、毎日の生活を支障なく送ることができることを意味する。ドイツ社会は、このような人々の「法治主義」を重視する意識のもとに成り立っているのである。
<初出:ドイツに暮らす⑫ 『現代の理論』2023年夏号掲載。許可を得て、加筆・修正の上、転載>