ドイツ・ハンブルクでのG20を目前に控えた7月6日。日本とEUは、極めて重要な2つの協定の大筋合意を粛々と発表した。2つの協定とは、日・EU経済連携協定(Economic Partnership Agreement=EPA)と呼ばれる貿易協定と、日・EU戦略的パートナーシップ協定(Strategic Partnership Agreement = SPA)と呼ばれる政治協定だ。
日本ではアメリカを含むTTPが、国会やメディアでかなりの議論を呼んだが、EUでもT-TIPと呼ばれるアメリカを巻き込んだ大型貿易協定の交渉が進んでいたことは、日本ではあまり知られていない。どちらも、トランプ大統領登場で宙に浮いたかっこうだ。日・EU間のEPA/SPAは、これらと並行して進められてきたが、国会もメディアもほとんど取り上げないまま、7月6日、合意に達してしまったわけだ。
誰が何のために急ぐ必要があったのか、少し考えてみたい。
EUが鼓吹する自由貿易圏構想
EPA/SPAは、2011年には協定交渉準備を始めることで同意し、2013年3月以来、延々と交渉を重ねてきたものだ。直前の6月末にも、欧州委員会の主席交渉官セシリア・マルストローム通商担当委員が来日して交渉したが、欧州側が求める「チーズなどの農産品」と、日本側が求める「自動車や自動車部品」に代表される関税撤廃などで、交渉は難航していると伝えられていた。
にもかかわらず、EUが急いだのはなぜだろう。
EUは、2000年代に入って、世界各国との交渉を開始し、西アフリカ諸国、東アフリカ諸国、韓国、シンガポール、ベトナム、カナダなどと次々に自由貿易協定を締結。EU28カ国を中心とする欧州の自由貿易圏(トルコやノルウェー、アイスランドなどを加えた35カ国)を押し広げようと精力的に取り組んできた。
2013年に開始されたアメリカとのT-TIP交渉は、オバマ政権下で、あらゆるステークホルダー(便益や影響を受けることになる組織や個人)を巻き込んで議論を尽くし、公開性・透明性を守りながら慎重に進められ、合意まであと一歩という段階に達していた。ところが、トランプ登場で暗礁に乗り上げてしまった。これは、環太平洋でTTPに起こったことと同じような状況だ。
EUでは、並行して、徹底的な情報公開のモデルケースとしてカナダとのCETA(Canada EU Comprehensive Economic and Trade Agreement)とSPAが進められ、こちらは2016年10月、合意に至った。しかし、加盟各国による承認課程で、一加盟国の地方議会(実はベルギー南部のワロン地域政府議会)が反対したことから混乱。EUとともに自由貿易を標榜する若き騎士カナダのトルドー首相を招いた公式調印をドタキャンする事態が生じた。この失態はEU首脳陣のトラウマとなった。
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日本とのEPA/SPA合意を急いだEU側の理由
リーマンショック以降の緩慢な経済回復と失業率の高留まり、シリア内戦の長期化から膨大に押し寄せる難民への対応とイスラム過激派によるテロ頻発、これにBrexitのショックが加わり、欧州では、ここ数年、美味しそうなナショナリズムを掲げるポピュリズムが急速に浸透。今年は、EU加盟国では、次々と天下分け目の国政選挙が続いている。オーストリア、オランダ、フランスではなんとかポピュリズムを抑えて親EU政権が誕生しているが、秋にはドイツが待ち受けている。そんな今、EUが世界の貿易や経済に積極的にリーダーシップをとっていることを、EU加盟各国の市民社会に向けて、また、Brexitやトランプ登場で内向き志向が蔓延する世界に向けて、強くアピールする必要があった。特に、ドイツ開催のG20直前に、世界GDPの30%を握る日欧の経済的・政治的連携を宣言するのは絶好のタイミングだ。EUがこのEPA大枠合意を「歴史的快挙!」と大きく演出しようとしたのはこうした背景からだろう。
EUとのEPA/SPA合意を急いだ日本側の理由
一方、日本が急いだ理由は明らかだ。安倍政権があれほど強引に進めたTTPがトランプ大統領の出現でほとんど意味を持たないものとなり、北朝鮮からの脅威に単独ではなす術もなく、相次ぐ国連特別報告者の勧告にまともに返答すらできない昨今の日本は、いくら安倍首相がプーチン氏やトランプ氏との親密な関係をアピールしても、国際社会での存在感は極めて小さい。その上、国内では私的な便宜供与疑惑や閣僚の相次ぐ失言、都議選での惨敗などから、ここへ来て、官邸・自民党の支持率は急降下。G7やG20など多国間協議では、どうしてもリーダーシップをとりえない安倍首相が、相手に不足のないEUから、外交・経済面で国際社会にインパクトを稼げる機会を持ちかけられて、飛びつかない理由はなかったのだろう。
どちらに軍配?
EPAはTTPのようなものだから、ありとあらゆる産業分野において、関税の削減や撤廃、非関税障壁の撤廃や緩和(さまざまな規制協力、検査や証明の相互認証など)、公共調達市場へのアクセスなどが事細かく規定されている。その上、TTP やTTIPでも課題とされた、投資争議については、EU提案の新しい国際投資法廷制度の導入が盛り込まれるらしい。
詳しくは、それぞれの関連URLや識者による詳しい解説などに譲るが、極めて端的に言うならば、EUにとっての主要課題は、牛肉、ワインやチーズなどに代表される農産品の自由化(関税撤廃と非関税障壁の軽減)。日本にとっての主要課題は、自動車および関連部品の自由化だった。ぎりぎりまで難航したというこの点が、どう決着したのかといえば、EUの農産物輸出は、施行と同時にほぼ完全自由化され、EUがこだわって来たEUの地理的表示(GI) は日本は踏襲することとなった。EPAが施行すれば、これらの農産品を含む、EU製品(医療・化学製品、衣料品などすべて)に課せられてきた関税の約90%が即刻撤廃となり、今後数年間で、ほぼ100%の自由化を達成するという。EU企業にとっては、施行によって年100億EURの関税節約となり、EU側の産業にとって、規制や証明などの非関税障壁の簡素化などEPAの実質的恩恵は大きい。
一方、日本の対EU輸出では、75%が即刻自由化されるものの、完全撤廃までに15年を要するという。目玉の自動車では、7年後に段階的撤廃で合意。推定値には日欧の発表に多少の食い違いがあり、日本側では、外務省、財務省、経産省がそれぞれバラバラのサイトに異なる様式で説明していて全体像がつかみにくいが、どうみてもEU側に軍配があがる。
そもそも、EUでは、交渉中から、EU市民やメディアに向けに、EPAで期待されるメリットをアピールしてきたが、日本側が業界向けの断片的な情報以外に、市民向けに分かりやすく具体的に解説した資料を見たことがない。安倍首相は7月6日の合意記者会見の中でも、「Win-Winの協定」を強調したが、日本社会の関心の薄さを背景に、日本側が、最後の最後まで、日本の経済界や市民の便益を代表して粘り強く交渉し、日本のために好条件を勝ち取ったという形跡は乏しく、得点稼ぎに急いだという感は否めない。
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日本は価値観を共有できる相手?
それにしても、ことあるごとに、EU首脳陣と安倍首相は「基本的価値観を共有できる」と繰り返す。EUは、日本をlike-minded countryと呼び、「仲間」として信頼に足る友好国と位置付ける。E今回同じく大筋合意に達したというSPA(政治協定)では特に、「欧州がEU創設以来依拠する理念を共有できる相手であること」が大前提と力説してくれたのは、EUの外務省にあたる、欧州委員会対外行動庁(EEAS)の日本担当官だった。EPA(貿易協定)の中でも、相互の社会での、労働基準、環境基準、気候変動合意などの遵守がはっきりと明記されるが、政治協定であるからにはSPAでは価値観の共有が中心となる。つまり、この2つの協定を結ぶには、法の順守、民主主義、基本的人権の擁護、表現の自由などが担保されていなければならないはずだ。
ここ数年の安倍政権下の日本の状況を見ると、EUが求める価値観を共有できる相手なのか疑わしい。衆参両院で絶対多数を握り、司法や官僚の人事権も含め権力を掌握した現行政府の官房と内閣府は、違憲嫌疑のかかる安保法、特定秘密法、共謀罪法などを次々と強硬採決してしまった。政府は、国連の人権委員会やプライバシーに関する特別報告者から勧告を受けても、全うな国として責任ある説明すらしていない。先進諸国の中で極めて例外的に、難民受け入れには極めて冷淡で、死刑制度を維持し、軽犯罪で逃亡の危険のない者でも長期不法拘置してしまう国だ。EPA/SPAで大筋合意をしたばかりの7月13日には、再審請求中を含む2人の死刑囚に死刑を執行したことは、日本を「価値観を共有する国」と敬意を表したEU首脳に対しては、極めて不快なシグナルとなったはずだ。EUのリーダーともいえるドイツ政府は、「残虐な非人道的対応」と厳しく非難した。
EUは、何も知らずに、本気で日本のことをlike-minded countryなどと思っているのだろうか。少なくとも、筆者が2013年以来、EUの外務省にあたるEEAS(対外行動庁)の日本担当官やEU議会の対日グループ(座長Mr Petr Jezek)が主催する勉強会などで見聞きする限り、彼らは現政権下でのこのような権力の集中による強権政治の動向をよく勉強していた。また、駐日EU代表部でも外交官がアンテナを張っているはずだ。
それでもなお日本をlike-minded countryとするのかと尋ねると、こんな解釈が漏らされた。一つは、現在の国際社会、特にアジア・極東地域では、経済的、地政学的に重要で、それでいてなんとか気が許せそうな国は日本しかないと。つまり、「相対的な」な友好国だ。その上で、日本に対し、持続可能な開発目標、気候変動パリ協定などの国際的な枠組みを遵守させ、労働基準、環境基準、食の安全基準(農薬使用、被ばく量を含め)をEU水準に高めさせるには、「罰則付き」のEPA/SPAは一定の効果をあげると考えるからだという。EUにとっても、極東ではまだマシな日本に、自由世界の役目を担ってもらうことができれば、その意義は大きいはずだ。
確かに、最終的なEPAには、貿易に関連する「持続可能な発展」についての章がはっきりと書き加えられ、たとえば、違法伐採木材製品や鯨製品輸入禁止、生物多様性、森林や水産資源を適正管理した上での利用などが義務付けられる。EPAのこうした条項が効力を持てば、日本の暴力的ですらある経済優先やあらゆる面での人権軽視に、歯止めをかけることができるかもしれない。
政権や経済界がどう評価しているかは別として、EPAが施行されれば、日本の消費者にとっては、欧州のバラエティに富んだワインやチーズが20%以上も安くなり、バターや牛乳やポテチの原料が突然不足したりするような事態は起こりにくくなる。その上、労働基準法が欧州レベルに厳しくなって、長時間勤務やパワハラが許されなくなり、低放射性廃棄土壌が国中にばら撒かれたりできないようになれば、EPAは日本の市民社会にはありがたい外圧となってくれるのかもしれない。
今からでも遅くない、関心を持ち、議論を
CETA、T-TIPでは、あれほど透明性・公開性を貫き、ほとんどすべての交渉文書や交渉過程を公開してきたEUは、日本とのEPA/SPA交渉はほぼ密室進行。日本側の希望によるものかもしれないが、EUが共有するという「価値観」の中には、透明性や公開性も含まれているはずではなかったのか。EU側では交渉内容はそれでも多少は公開されてはいるが 、日本側(外務省サイト) では、会議日程のリスト以外はほぼ何も開示されていない。SPAに関しては、情報はさらに少ない 。
EUの7月6日付Fact Sheetには、「7月6日に突破口を越えて『政治的決着』をつけたが、今年末までに詳細をつめ、最終的な合意文書を完成させる予定」となっている。要は、政治主導で、日・EU双方が、G20直前の7月6日に「大筋合意」を急いだだけで、詳細はこれから詰める部分も多いのだろう。
さらに、EU側には、この協定を、純然たる「経済協定」としてのEU議会の承認だけで発効させられるのか、あるいは、「経済以外の分野を包括する混合協定」として、加盟各国の議会(国によっては地方議会も含む)全ての承認を必要とすることになるのか、という検討決定課題が残されたままだ。後者と判断されれば、カナダとのCETA同様、おそろしい時間を要し、全議会の承認を得られずに立ち往生するというリスクも秘めることになる。EU側では、日本とのこの協定を最後までFTA(自由貿易協定)と呼んできたのに、最終的には、日本側の強い希望通り、EPA(経済連携協定)という名称が採用されたようだが、その陰には、双方の微妙な思惑が絡んでいたのはないかと考えてしまう。いずれにせよ、こういう要素もあるので、大筋合意に達したとはいえ、最終的な合意まではまだまだ時間を要することは想像に難くない。
日本でも、EPAやSPAが、日本の消費者に、また、農業、漁業、自動車や通信機器などの製造業などにどう影響するのかについて、日本のメディアや専門家が多少発信し始めたようだ。しかし、国内産業を保護するための直接的な補助金や輸入量規制などは、明らかな禁じ手(=非関税障壁)であることを十分に理解した上で、国内産業に本質的な競争力を持たせるための政策が急がれるべきだ。それが、「自由貿易」の本質なのだから。
現政権の人気取りに利用されて、気がついたら協定が締結され、発効していたということがないよう、知って、議論し、引き受けて、行動する覚悟が、日本社会全体に問われている。今からでも、遅くはないはずだ。
トップ写真:晴れやかなはずの大筋合意記者会見。欧州理事会のトゥスカ議長(真ん中)も、欧州委員会のユンカー委員長もなんとも難しい顔つき。会見文書を棒読みする安倍首相。©JUN Fujio
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