前編に続き、伊東順子氏が晩年のインタビューから書かれた記事の後編をお届けする。朝鮮戦争休戦70年に寄せて、戦争に翻弄された青少年時代から、欧州に渡って医師となる夢を果たし人道支援に尽力した亡国の医師ドクター・チェの生涯に思いをはせ、侵略戦争の終了と平和を願う。8月4日、帰郷を夢見たドクター・チェの一周忌に寄せて。
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1954年、24歳の青年は軍用機に乗ってベルギーへ行った
1954年、ベルギーの軍用機が一人の青年を乗せて韓国を飛び立った。青年は北朝鮮の出身の23歳、韓国政府から発給された留学生用旅券を持っていた。着いた先はベルギーの首都ブリュセルから南に約70キロ、ナミュールにあるイエズス会の学校だった。
「寄宿舎の屋根裏部屋が私の部屋でした。食堂の残り物をもらって食べていました」
チェ・ヨンホさんは若き日を振り返るが、辛かったのはそのことではなかったという。
「当時のヨーロッパはとても貧しくて、贅沢なんか言えません。それよりも、問題は学校の勉強に全くついていけなかったことです。フランス語がわからない。それで私は神経衰弱になってしまいました。」
チェさんは当時を思い出して、本当に情けないといった顔をした。
ベルギーは多言語国家であり、ナミュールのあるワロン地域はフランス語圏である。チェさんは朝鮮戦争中に多少のフランス語を覚えたとはいえ、いきなり高校の授業についていけるはずもなかった。
「そんな時、アントワープの港湾事務所で働く人を探しているというので、そちらに連れて行かれました。勉強は無理だと判断されたのです。でも、社会保険がないので就職できないと言われました。引率者は残念がっていたのですが、ところで……」
一呼吸置いたチェさん、こちらをまっすぐ見た。
「港にはたくさんの船が停泊していたのです。それを見た瞬間に居ても立ってもいられなくなった。私は船員になりたいと申し出ました。そうすれば北朝鮮の家に帰れるのではないかと」
アントワープ(現地の言葉ではアントウェルペン)は画家ルーベンスの故郷であり、『フランダースの犬』の舞台となった街だ。第二次世界大戦末期にはドイツ軍と連合国軍との激しい戦闘があったが、港はかろうじて破壊を免れた。街は戦後のヨーロッパ復興の拠点となり、港は米国からの物資を運ぶ大型船で活況を呈していた。
船舶会社の多くが、船員を募集していた。その一つ一つを訪ねてみたが、チェさんを採用してくれる会社はなかった。
「外国人は駄目だと言うのです。もう行き場はなかった。先生は1年だけ頑張ってみろとおっしゃいました。最後のチャンス、死に物狂いで頑張りました」
そうして1956年、チェさんはルーヴァンにあるカトリック大学医学部に入学した。
医学部は卒業したものの
学業は順調だった。六年制の医学部を卒業した後、外科医の専修過程も終えた。ところが、そこら先はストレートには行かなかった。
一九六五年 ベルギー國の外科専門医の資格証書を受ける。併しながら、ベルギーの市民權を所持しない外国人なので、就職が不可能であった。
一九六八年 整形外科専門医の資格証書を受ける。歸國して韓國カトリック医大の教鞭を試圖したのだが、フランス語で医学をした故、韓國医学語彙の不自由、そして國家試験などの困難にぶつかり、再びヨーロッパに帰るやうになった。
2017年夏にお会いして以降も、チェさんからは何度かお手紙をいただいた。日本語で書かれた手紙は筆致も力強く、とても80代後半の年齢とは思えない健筆ぶりだ。前号で紹介したよう、1930年生まれのチェさんは、中学までは植民地下の朝鮮半島で日本語教育を受けた。また、高等教育のほとんどの期間はフランス語である。韓国語での正式な教育はほとんど受けていなかったのだ。
韓国での就職と医師免許獲得を断念したチェさんは、米国への移民を模索する。1965年の移民法改正を受けて、米国はアジア人にも門戸を開いており、韓国人の間で米国移民は大きなムーブメントになっていた。
一九七一年 米國に移民する積りで、アメリカ國家医師試験であるECFMG試験を受け、合格する。直ちに、アメリカ移民手續を始めたが、出身地が共産国であり色々な理由で残念ながら失敗したのだった。
「共産国」というのは北朝鮮のことだ。でも、当時のチェさんには韓国政府からパスポートを発行されていたはずだ。
「16歳以降に住んでいた所を全て書いて提出しろ言われたんです。私が16歳からわずかな期間をすごした故郷の家は黄海道、そこは北朝鮮だということになりました」
でも、その後に南に渡り、朝鮮戦争では米軍が主導する国連軍と一緒に行動していたではないか。
「そこで米国大使館は条件を出してきました。1年間ベトナム戦争に従軍すれば、市民権を与えると。君は外科医だからねと。戦場にはとても必要な人材だったのでしょう。でも、もう戦地は嫌でした」
チェさんは米国行きを断念した。
1971年、ついにベルギー国籍取得。しかし……
とても、焦っていたという。ベルギーに来た時は20代だったチェさんもいつの間にか40歳、欧州の手厚い教育制度によって、学業だけはつないで来られたものの、身分は不安定なままだった。韓国への帰国も挫折、米国への移民も断念、朝鮮半島の政治状況も悪化する中、行動は自ずと制限される。そんな八方塞がりの彼に、やっと朗報がもたらされた。ついにベルギーの市民権が認められたのだ。17年目のことだった。
「17年もかかったんですか?」
インタビューに同行してくれた、ヒロコさん(結婚でベルギー国籍を取得)はとても驚いた様子だった。
「本当に長い時間でした。ベルギー人と結婚すれば、それは難しくなかったのでしょうが、私の場合は独身だったし、金もなかった。しかも当時、国籍取得の審査は公開制でした。『この人物がベルギー人となることに賛成するか?』写真付きで、政府広報に掲載され、役場に貼り出されるのです」
当時としては珍しかった東洋人の写真に、ベルギーの人々はどんな反応を示したのだろうか。それも大変興味深いのだが、先に進む。国籍を取得したことで、やっと就職もできるし、これで安定できるだろう。チェさんは安堵したが、そうは問屋がおろさなかった。安定どころか、さらに狂ったような流転が待ち受けていたのだ。ベルギー旅券をもったチェさんの最初の就職先は、地中海の向こう側、アフリカ大陸の入口にあるモロッコ王国だった。
「すごい砂吹雪で、目も開けていられないんですよ」
そこから南下して、赤道直下のコンゴへ。
「ものすごく暑かったのです。病気になってしまいました」
ベルギーに戻り健康を取り戻すと。イギリスに渡って人工関節を学び、そのままヨーク州の病院に採用された。
「ところが、外国人医師の給料は信じられないほど安くて…」
将来が不安になったチェさんが次に向かったのは、スウェーデンのストックホルムだった。
「ものすごく寒くてね」
それはそうでしょう…。 私も友人も狐につままれたような顔をしていたと思う。韓国の占い師なら、「とんでもないヨンマッサル(駅馬=流浪の運命)」と言い放っただろう。彼は自分自身の正式な生年月日を知らないが、優秀な占い師なら、ここからパルチャ(八字)を逆算して、生まれた時間までを導きだすかもしれない。
彼は「流浪の医師」という言葉を自嘲的に使ったが、流れるどころではない。弾かれ続ける、まるでゴールを見失ったピーンボールの玉のようだった。
しばらくして、ドイツのNATO軍の病院から彼に、「待遇の向上と将来の保証」を約束したオファーがあった。
「ありがたい申し出でした。ドイツの気候は私に合いますし。半年ほどドイツ語を勉強した後で、勤務につきました」
そこで、看護師として働いていた妻のリアさんと出会い、結婚をした。故郷の家を出て四半世紀、やっと得た安住の場所だった。まだ最終ゴールには達していないが、それでも心休まる家と新しい家族ができた。
ヨーロッパと朝鮮半島の同時代体験
「ところで、あなたたちも国際結婚ですか。パートナーと仲良くやっていますか?
チェさんからの突然の質問に、私たちはしどろもどろになった。
「国際結婚というか、国際離婚というか…。まあ、いろいろ難しいですよね」
「そうでしょう、実は私と妻も価値観が合わなくて困っています。」
仲のいいご夫婦だと思っていたのに、どうしたことか。ただ、話を聞いてみると、それは国や民族の違いとも言えないような気がしてきた。
「実は私もそう思っていたのです。価値観の違いは世代の違いではないかと。彼女は戦後の生まれ。ヨーロッパでも同世代の人達とはとてもわかりあえる部分が多いのです。例えば、物を大切にするとか」
「大戦後のヨーロッパは本当に貧しかったですよ。ドイツはもちろんですが、フランスやベルギーだって。みんな生き延びるのに必死だったのです」
妻とは日常的な些細なことでぶつかるというチェさんは、話の中でハイデッガーの『存在と時間』の一節を持ち出した。
私は思いっきり言葉に詰まった。いきなり哲学とは。でも、考えてみれば彼の世代のヨーロッパの知識人にとって、それは普通の日常会話なのだろう。これは持ち帰って勉強するしかない。そして「年の離れた妻にはわからない」と彼が言う、戦後ヨーロッパの荒廃についても、私はあまりにも無知だった。
あらためて言うまでもなく、第二次世界大戦はアジアとヨーロッパが主な戦場となった。ヨーロッパではナチスドイツによるポーランド侵攻がその始まりであり、イギリスを除くほとんどの国がドイツに占領された。そこで何が行われたかは、私たちアジアの人間でも『アンネの日記』などで断片的には知っている。その後に、連合軍によるノルマンディー上陸作戦が成功し、ドイツ軍を降伏したという歴史も知っている。
でも、「大半のヨーロッパ人にとって戦争は受け身」であり、 「占領軍だけでなく解放軍も外国軍だった」という指摘にはハッとした。そして、それは長らくそれは「うしろめたさ」を伴うものだったという。(『ヨーロッパ戦後史』(トニー・ジャネット著・森本醇訳、2008年)。さらにここにベルギーの政治家で国連総会初代議長を務めたポール=アンリ・スパーク(1899年1月- 1972年)の言葉もあった。
「戦争の中で、ベルギー人もフランス人もオランダ人も、騙すこと、嘘をつくこと、闇市で売り買いすること、人を疑うこと、人をたぶらかすことが、自分たちの愛国的義務だと信じるようになってしまった。5年のあいだに、これがすっかり習慣化していた」
アンネ・フランクの家はオランダの首都アムステルダムに今も記念館として残されている。彼女たちをかくまった人も、密告した人も、連行した人も、みな戦後のオランダで同じ国民として、生きていかなればならなかった。 彼らにとっては戦後もまた「もう一つの戦争」であった。
パリやブリュッセルが連合軍に解放されたた頃、チェさんは日本統治下の朝鮮半島にいた。わずかな時差で、そこにも「解放軍」がやってきた。「同世代のヨーロッパ人への共感」とチェさんが言うのは当然かもしれない。他民族による支配を経験し、さらに外国軍による解放も目の当たりにした。しかも、アフリカの植民地さながら国土が直線で分けられ、その北部ではソ連軍に解放された東ヨーロッパの体験までしたのだ。
そして、朝鮮半島では「もう一つの戦争」が実際の戦争となり、チェさんをベルギーまで運んできた。
故郷に帰るための旅
「妻と不和だって? チェさんもまったく何を言ってんだか。あんな仲のいい夫婦はいないわよ」
二人をよく知るジャーナリストの栗田さんは大らかに笑った。
「だって、リアさんはもともとオランダ語圏の人だけど、チェさんにあわせてフランス語で話すし、韓国文化院の行事にも熱心に通っている。それにあのお人形を見たでしょう?チェさんがお医者さんの時の」
人形というのは、ドイツにいた頃の友人が作ってくれたというものだ。 私たちが行った時も、リアさんが真っ先に見せてくれた。
「これが私の夫。とっても可愛いでしょう」
小さなガラスケースの中で、手術着姿のチェさんがキョトンとこっちを向いていた。
二人の家にはこれ以外にも、たくさんの人形や絵が飾られていた。よく見ると、韓国の昔の風景の切り絵や韓服を着た人形もある。リアさんが韓国文化院で習った韓紙工芸の作品だった。
「素晴らしい奥様ですね」と褒めても、チェさんわずかに口元をほころばすだけ。ここらへんは、いかにも東アジアの男だ。
2018年5月、世界を驚かせた南北首脳会談のニュースを見ながらチェさんにメールを送ったら、すぐにリアさんから返事がきた。
Dear Junko
Thank you very much for your nice mail. We hope you go very well.
My husband would like to go to N Korea very soon !!!!! (After 68 years).
Friendly greetings from Brussels.
Yong-Ho & Ria.
「六八年ぶり」という言葉に泣きそうになった。彼はあきらめていなかった。
数日後、カソリック教会のミサで夫婦に会ったという栗田さんからもメールをもらった。
「チェさんは金正恩氏と文大統領との出逢いのシーンを感無量で眺めて、なんどもなんども涙しながら録画を再生して見ているそうよ」
1989年、ベルリンの壁が崩壊するのを間近で経験した。震える心で「次は朝鮮半島」だと思ったという。それから10年後の2000年、金大中と金正日による初の南北首脳会談が実現し、離散家族の再会事業がスタートした。チェさんも即座に申請した。50年前に別れ別れになった家族。母はまだ生きているだろうか。しかし、再会予定者リストにチェさんの名前が載ることはなく、そこからさらに18年の時が流れた。
彼の手紙には再会への希望が綴られていた
流れ行く歳月とともに、拙者も今は高齢になり、将来どんな風に愛する家族と再会できるだろうかと未知の中に待ち遠しくしています。家を出てきたのが1950年で、私の姉の最初の子供が今や七十歳に近づいているはずです。父母は百歳を遠に超え再会は不可能、私が家を出た後に生まれた甥や姪たちも私を全く見たことがないので、外人に見えるだろうと想像するのです。
この原稿を書きながら、チェさんの道程を確認するために、何度も世界地図を広げた。試しにグーグルマップでアントワープを探し、ルート検索の目的地に平壌と入れてみた。アエロフロートで18時間、航空路線が表示されたモニター上には、広大なユーラシア大陸が映し出され、ベルギーはその西の果てにあった。地図をスクロールしていくと、その最も東の果に朝鮮半島が現れる。ベルリンの壁はとうの昔に無くなり、ヨーロッパの戦後は新しい段階に入ったが、アジアでは未だ第二次世界大戦が精算されていない。戦争を起こしたのは日本である。
これ凡てが、善かれ悪しかれ、過ぎ去った二十世紀は如何なる事にぶつかっても生き抜いて、家族と或る日再会するのだという希望の中に今日に至ったのです。
ぶつかって、弾き返されても、必死に生き抜いてきたのは、故郷の家族と再会するためだった。それだけではない。チェさんは医師の仕事をリタイアしたあと、ブリュッセルの韓国大使館やカトリック教会を通して、子供たちに自分の体験を語る活動をしている。韓国語、日本語、フランス語、英語で――彼の手紙の末尾には、次のように書かれている。
早く南北が一緒になり、自由な往来が実現し、連絡の途絶えていた家族が再会すれば、それは韓民族にはこの上ない幸せではないかと思うのです。それは朝鮮半島ばかりではなく、隣国である日本と中国など極東に平和な反映の時代が訪れればと切望するのです。
一体、何の為に数えきれぬ多くの若者が故郷を遠く離れ、異郷で血を流せねばならなかったのか。二十一世紀の若者は平和と共存共栄の道を辿れるやう切望しながら乱書を、宜しくお願いします。
蔡永昊
※本町は日本の植民地時代の町名だが、手記にもこの名称が使われており、そのまま使用する。チェさんは1953年以降、ソウルで暮らした経験はない。
前編はこちらから
合わせてこちらの記事も「脱北亡命医師の平和の祈り」
また、フランス語がわかる方には、ベルギーの友人有志が残した回顧録も併せてお読みください。
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<寄稿者プロフィール>
伊東順子/Junko ITO
愛知県生まれ。フリーランスライター、翻訳家。在韓歴25年。著書に「韓国 現地からの報告」(ちくま新書)、「韓国カルチャー 隣人の素顔と現在」(集英社新書、「ビビンバの国の女たち」(講談社文庫)、訳書に「搾取都市、ソウルーー韓国最底辺住宅街の人びと」(イ・ヘミ著、筑摩書房)他。朝日新聞WEBRONZAで、「ここだけの韓国の話」を連載中。
本稿は伊東順子さんが主宰する「中くらいの友だち」Vol 3 & 4に掲載されたものを本人のご厚意により転載。