「飛び込むのが決まりですよ」
タイタニックジョークというのをご存じだろうか。かなり有名な小話で、各国のバージョンがある、いわゆるエスニックジョークである。
タイタニック号が沈みそうになった。でも、救命ボートの数が足りない。船長は、なんとかしてあと何人か海に飛び込ませて、頭数を減らしたい。そのときの説得のセリフ。
- アメリカ人なら「あなたはヒーローになれますよ」
- イタリア人なら「あなたは女性に愛されますよ」
- フランス人なら「飛び込まないでください」
- ドイツ人なら「飛び込むのが決まりですよ」
- 日本人なら「皆さん、そうしておられますよ」
もちろん、一番笑えるのは日本人だ。これこそ同調圧力社会如実に表した決め台詞。だが、本稿で話題にしたいのは、「決まり」と言えば、おとなしく従うドイツ人のメンタリティである。なぜドイツ人はこれほど決まりに弱いのか。いや、弱いという言葉は相応しくない。決まりには強い拘束力があると言おうか。それはドイツが法治社会であり、人々の意識の中で、法治主義はかなり確固たるポジションを占めているからだ。
そんなことを言えば、日本も含めて、民主主義体制の国は、実態はどうあれ、いちおう法治国家という体裁である。しかし、日本人の私がドイツの社会を見ていて、つくづく日本との違いを感じるのは、自分たちが法治国家で生きているというその基本的意識のもちようである。
日本人の「みんながそうしているから」自分もそうするという行為の背景には、成文化された規定はない。それは、単なる集団の慣習であり、人々は深く考えもせず、唯々諾々とそれに従っている。ドイツ人の場合、それはまず第一に法律に根拠がなければ、行動に対する強制力はないのだ。
たとえばTVで、NHKの夜7時のニュースに該当する、ドイツの公共放送のニュースが流れる。今度新しく政府がこういう方針を打ち出すと紹介される。するとその報道の終わりに、必ずドイツの最高裁、すなわち憲法判断を行うための連邦憲法裁判所のあるカールスルーエから、法律の専門家が登場して、「ただいま政府の打ち出した方針は、法律上、これこれしかじかの疑義がある」などと解説するのである。そこで微妙な問題点が指摘されたり、批判されたりすることもしばしばだ。
コロナ禍では、矢継ぎ早に政府は対策を立てて、それを実行してきたが、その政策についてのニュースが流れる度に、法律の専門家がコメントを加えていた。つまり、法律に根拠のない政府の暴走は許されず、そこに市民も目を光らせているわけだ。
コロナ禍で爆発的に増えた裁判件数
そして、ここからがすごいと思えるのは、法律の専門家の解説通り、コロナ禍のロックダウンなどの措置でかなりの店や事業が閉鎖に追い込まれたが、相当数の人々がそれは憲法違反だとか、あるいは、政府による休業補償金が十分でないとか、裁判を起こしたことだ。
知り合いの州法務省に勤める人から、この爆発的な訴訟件数に対応しきれず、通常の業務がまったく後回しになったと聞いた。自分にとって納得がいかなければ、すぐに裁判を起こす。市民として当然の権利であると考える。そのために多くの人々は、権利保護保険(いわゆる弁護士保険)に入っていて、何か事が起きれば、この保険を使って弁護士費用を出せるようにしている。
こんなエピソードもあった。あるドイツ人の友人が、会合に少し遅れてやってきた。その理由を説明し始めたのだが、彼女はそこに来る前に警察に寄ってきたのだという。自分は自転車に乗っていたのだが、その脇を通りかかった車から、男の人が「ぼやぼやしてんじゃねえよ。さっさと走れ」とか言ったので、彼女はその彼を侮辱罪で警察に通告したのだという。もちろん、ナンバープレートもしっかり写真に撮って。
道路を車で走行しているときに、交通の邪魔やスピード違反をしたりした場合、それを目撃した通行人が警察に訴えることはしばしばだ。日本からドイツに移住したばかりのころ、夫に警察から呼び出しが来た。町のとある信号の角を猛スピードで曲がったという複数の通行人からの訴えがあるが、あなたはそれを認めるかという手紙である。そういう事実はあったし、複数の通行人が目撃したというので、夫もすごすご罰金を払ったものである。
学校教育と法
ところで、日本でもドイツでも形こそ違え、ずっと教育という仕事に就いている私にとってここでの教育における法の支配は、さすがに法治国家だと思わずにはいられない。
ドイツの学校教育は、各州の独立行政であって、連邦レベルの法律や憲法が基本理念を示し、州レベルの法律では、教員資格の詳細な規定や学校組織、カリキュラム内容や試験制度を決定している。それもかなり具体的かつ厳格なもので、たとえば、宿題の量は小学1、2年生では家で30分程度でできるくらいの量、3,4年生は1時間程度などと規定されているのだ。もし教師が、こどもがいくらがんばってもその時間内でこなせない宿題を出したら、保護者はそれに対して法律違反だと抗議することができるし、実際に抗議する親たちは珍しくない。
私が、法の面から日独の大きな違いを感じるのは、ドイツではこどもの学習権がもっとも尊重されることだ。こどもが学校に行かないという場合、それはとりもなおさずこどもの学習権が侵害されたことを意味し、まず保護者の責任が問われる。不登校という事態が発生しないように、学校、心理士、保護者が連携してこどもの学習権を守る。
以前、ニュースを聞いていて唖然としたことがあった。それは、夏休みの始まる1日前、教育委員会の人たちが空港の旅行者の中に学齢期の子どもがいないかを監視するために待機しているという話だった。ドイツでは夏休みは州ごとに一斉に始まる。バカンス先へのフライトチケットは、夏休み初日からぐっと価格が跳ね上がる。それを避けるために、一日前に出発できれば親にとって安上がりだ。この理由から、自分のこどもに学校を休ませて、連れて旅行に出てしまう。そこで、こども連れの親を空港で見張っていて、摘発するというのである。結局親はこどもの学習権を侵害したということで罰金を払い、かえって高くつくから、そのようなことはしないようにというキャンペーンを張っているというのである。
秩序への渇望
このような例を挙げると、息苦しい監視社会を想像されるかもしれない。だがそれは、法律は自分の身を守るためという意識をドイツ人が持っているからであって、そこには、法のもとでの平等へのゆるぎない信頼がある。
ところで、そもそもなぜドイツはこのような堅固な法治国家となっているのだろうか。それは、その真逆だった歴史から、「秩序への渇望」があるからだ。
ドイツは、19世紀初頭まで数百年間、各地の領邦国家が独立して存在していた。ようやくその後、帝国憲法が制定され、ドイツ統一を果たし、国家の権力を制限するための法的枠組みが整備された。
第一次世界大戦後には、ヴァイマル共和国が成立し、民主主義と法治主義の理念が採用された。しかし、ナチスが政権を握ると、法治主義が無視され、法律が権力者の意に沿って解釈されるようになる「人治」となってしまうことを人々は実際に経験したのである。
第二次世界大戦後、ドイツは法治主義の重要性を再認識し、法の支配を再び確立するための取り組みを行なった。現在の憲法は、法治主義を基本原理の一つとして掲げ、司法の独立性や人権の保護を明確に規定している。これらの歴史的背景から、ドイツの人々は「法治主義」を非常に重要な価値観として位置づけ、その原則を守ることが重要だと考えているのである。
また、日本人の私が特に違いを感ずるのは、裁判所が政治的圧力から独立しており、裁判官が法律に基づいて公正な判断を下せることだ。日本は、地裁、高裁までの判断が、最高裁で逆転することはよくあり、それは多くの場合、現行政府の意向に沿った傾向となるようだ。最高裁判所裁判官の指名権・任命権は内閣にあるので、これはある意味当然だとも言える。
一方、ドイツの場合、憲法裁判所の裁判官は、連邦議会と連邦参議院によって選ばれる。候補者は、連邦議会の選考委員会が作成したリストから選ばれるが、この選考委員会は、議会の各政党が代表を派遣しているため、当然、政府与党以外の党の意向も反映されることになる。
そもそも裁判官は、公務員という地位を持ちながら、彼らの給与は政府から直接受け取るのではなく、法的に独立した組織である「ドイツ裁判官協会」(Deutscher Richterbund)から支払われる。この協会のメンバーは、法曹界や社会的機関から選ばれていて、裁判官の給与や年金などを決定する。
すなわち、ドイツの裁判官は政治から真に独立しているため、政府や政治的圧力による給与や処遇の影響を受けず、法に基づいて公正な判断を下すことができるのだ。
<初出:ドイツに暮らす⑫ 『現代の理論』2023年夏号掲載。許可を得て、加筆・修正の上、転載>