デンマークからの報告は、Z世代にバトンを渡すために必要な多くのことを示唆していたと思う。温水供給インフラの共有、共同居住ヴィレッジ、民主主義ガレージ。こうした具体的な事例から、ウェルビーイング実現のためのキーワードを抽出してみた。
環境との共生、多様な暮らし方、そして民主主義
自治体による暖房給湯用温水供給の例からは、「人間と地球環境の共生」というキーワードを読み取ることができる。再エネ利用の議論が世界中で高まるずっと前から、デンマークが地政学的に風力発電の可能性を自覚し、原発に背を向けたこと。その判断が正しかったことは長い時間をかけて証明されている。
共同居住ヴィレッジの例は、私たちのオルタナティブな共同体の姿を示している。キーワードは「暮らしと家族」だろう。どこで、どのように、誰と暮らすのか、それを自分で選択できる自由を、21世紀の私たちは手にしている。自分と自分の家族だけが、いわゆるマイホームの分厚いコンクリートの壁の中に閉じこもるのではなく、軒を並べた家々が、緩やかに外に開かれた形で、隣人たちと交わりながら暮らすこと。そして、父と母と子供という伝統的な家庭だけでなく、同性の両親と子供で構成する家庭、多世代で構成するシェアハウスなど、いろいろな家族のあり方があっていい。
そして、民主主義ガレージだ。幼児を連れたお母さんたちが、お茶を飲みながら自然に政治や民主主義について語り合えること、そして、そのための場所があること。「民主主義」という看板を挙げただけで人の足が遠のきそうな空気が充満している国では考えられないが、こうした場所や機会から、生活と直結した政治的思考が生まれてくるに違いない。ここから得られるキーワードはもちろん「民主主義」である。
私の考えるウェルビーイングの4つ目のキーワードは「教育と啓蒙」、そして、5つ目のキーワードとして、前世紀までは「資本主義」が挙げられたかもしれない。しかし、環境破壊、社会・南北格差の増大、他者の疎外などいろいろな弊害を生んできた資本主義の評価は、21世紀のウェルビーイングの考察においては微妙だ。資本主義に疑問を感じ異議を唱える人がどんどん増えているから、そう遠くない将来、オルタナティブな経済モデルのあり方もはっきりしてくるだろう。
このシリーズでは、以上4つの概念を緩やかな枠組みとして、これからも欧州でのベストプラクティスを報告していければと思う。
「いちばんまし」な政治形態?
まず本稿では、あらためて民主主義について考えてみた。
民主主義といっても、議会制民主主義、直接制民主主義、熟議民主主義など、制度としてはさまざまな形態があり、進化形がまさにいろいろ試されているが、本稿での民主主義は制度というより、「社会運営の基本的なあり方としての思想、主義」と定義しておきたい。
民主主義とは、民が主であること、つまり国民主権の思想である。国民一人ひとりの基本的人権を尊重し保証することが目的だ。たとえば、議会制民主主義の形においては、国民が権利を行使するための代表機関が議会であり、ここで国民の意思を反映するべく法律が制定され、施行されている。国家では権力が集中しないように、行政、立法、司法の三権分立が重視されている。
英国首相だったウィンストン・チャーチルの名言に、「民主主義は最悪の政治形態と言われてきた。ほかに試みられたあらゆる形態を除けば」というものがある。つまり、ベストではないけれども、少なくとも今のところ、いちばん「まし」な国家運営の形だ、というのである。比較の対象になるのが、近代以前の君主政治や20世紀の独裁政治、人権保護の面で運営上問題が発生しがちな社会主義なので、この言葉は説得力がある。
社会学者の上野千鶴子さんは、民主主義は制度というより道具だ、と言う。著書『18歳からの民主主義』の中で、「民主主義は道具だ。何を決めるかではなく、いかに決めるかについての、不完全で欠陥の多い、しかし、今のところこれに代わるこれ以上のものがないと思われている、道具である」と書いている。さらに、民主主義は道具だからこそ、使い方に習熟しなければならないし、使わなければ錆びる、と言う。そのためには子供の頃から、あらゆる場で民主主義を学び実践しなければ身につかない、と。
筆者も同感だ。民主主義は、それを採用した国家では政策の根幹を成すものだが、同時に民心に根ざしたものでなければ機能しない。一人ひとりの自発的な行為が伴ってこそ、「生きた民主主義」になる。そのために、地味だが最も大切なのが、ネットの世界に閉じこもらず、生身の他者と話すこと、ではないだろうか。家庭、学校、地域社会などの場において、人が「自分と同じ重みをもつ他者」を早い時期に理解し、意見交換する日常を積み重ねて、民主主義が真に生きる。翻って、先進国であってもそうした環境がない国では、民主主義が形骸化しがちだと思う。
殺すのでなく議論する
私の住むドイツを含め、ヨーロッパ社会の多くでは「議論する文化」が非常に重視されている。家でも学校でも、幼い頃から「自分はどう思うのか、何をしたいのか」をはっきりさせ、それを明確に言葉で表現することを求められる。日常のちょっとしたことでも、政治や社会のような大きなテーマでも、基本は同じだ。特に、上下関係のないプライベートな場では、万人が対等に意見を闘わす。だから、黙っていると「この人は自分の意見がない」「テーマに興味がなく退屈している」「体調が悪い」などと解釈され、いずれにしても半人前扱いにされてしまう。どんな意見でもいいから、とにかく発言するのがヨーロッパの大人なのだ。こうして「ぶれない自分」が確立されていく。これは民主主義には欠かせない要素である。
半面、自己主張はともすれば利己主義や権利主義とリンクしがちだ。「主権」を自分だけにあてはめると、ヘイトやテロリズムの肯定につながり、民主主義の本義から逸脱していく。実際にそれこそ私たちの現実とも言える。そうでなく、相手の権利と尊厳を意識しながら、とにかく言葉を尽くして議論する。そのうちに先方の感情や意見の背景が見えてきて、それに応じて自分の意見や発言のニュアンスを調整する。譲歩や妥協も必要だ。こうしていつか折衷点が見えてくるし、見えてこなくても理解に向かって少しは前に進むことができる。家庭でも、職場でも、政界でも、基本的にはこのモデルでコミュニケーションが進む。「(批判されるのはイヤでも)、すぐに殺し合うのではなく、常に相互に批判し合っている状態こそ、民主主義が機能している証拠なのです」というのは、ドイツの哲学者マルクス・ガブリエルだ。
白熱するドイツのトーク番組
ドイツで白熱した議論カルチャーを感じることができるのは、テレビのトーク番組だ。夜9時以降の時間帯に、主要局が毎晩のように複数のパネリストを集め、スタジオで時事問題を論じる。識者だけでなく現役の閣僚が出演することも珍しくない。こうした場でのパネリストたちの弁舌はよどみない。手元にメモをしのばせることもなく、自信たっぷりに滔滔と持論を展開し、モデレーターが遮るまで発言を止めないのは普通のことだ。議論が白熱して複数のパネリストが同時に発言することもしょっちゅうで、その声のボリュームに耳を塞ぎたくなることもあるが、自分の主張を伝えたいという情熱には圧倒される。彼らもまた、議論こそが多様性を奨励するドイツ社会の基盤であり、民主主義の基本であることを心得ているのだろう。
日本ではゴールデンタイムの番組に、現役大臣がライブ出演して識者と議論を闘わすことがあるだろうか。そして、日本では制度としての議会制民主主義はあっても、理念としての民主主義が生きられ、実践されているだろうか。他人の意見に無関心で、自分の価値観だけにとどまる姿勢を続けていくと、社会全体として何も創造できず、発展していくこともできないのではないか。民主主義は日々実践しても、環境保護と同じように、その成果がすぐには感じられない。でも、その地道なプロセスが存在していることは、Z世代のために何より重要だと思う。