世界中が戦々恐々と見守る中、Tokyo2020に参加する選手たちが到着し始めた。悪夢が脳裏をよぎる…。変異株が持ち込まれ、感染が拡大し、医療が崩壊するのではないか。プリンセス・ダイヤモンドの二の舞になるのではないか。コロナ禍の1年でも、世界各地ではスポーツや芸術の国際大会が、さまざまな知見を元に慎重に挙行され、「コロナ時代の国際大会」への道筋をつけている。この5月、ベルギーで実施された国際音楽コンクールもその一つだ。商業主義を越え、真に参加者のための国際大会への智慧を探る。
「安心安全」は可能
毎年5月にベルギーの首都ブリュッセルで開催される「エリザベート王妃国際音楽コンクール」は、チャイコフスキー国際コンクール、ショパン国際ピアノコンクールと並ぶ、世界三大コンクールの一つで世界への登竜門とされる。その特徴は、ピアノ、バイオリン、チェロ、声楽と、各部門が4年ごとに巡り、それも人生にたった一度しか挑戦できないことだ。昨年はピアノ部門だったが、コロナ禍で今年に繰り越された。ちょうど東京オリンピックが延期されたように。
このコンクールでは、昨年5月以来、感染症専門家を含めた組織委員会は、1年をかけて、実現可能なやり方を模索し準備を進めた。世界から集まるピアニストたち、オーケストラの団員、審査委員、ジャーナリストらを、何人、どのように受け入れ、どう検査をし、どう進行すれば、誰もが不安なく実現できるのか。こうして、今年、たった一人の感染者も出さずに約1カ月の全日程を終了した。二人の日本人青年ピアニストが3位、4位に入賞するという日本人には嬉しい結果を残して。
結果発表後、インタビューに応じてくれた阪田知樹さん(左)と務川慧悟さん(右)
©Hironao Oguma
その秘訣は何だったのだろう。何よりも、スケールを大胆に縮小し、無観客で行うという英断をしたことのようだ。通常24人の準決勝進出者は12人に、決勝は12人から6人と半分の規模にした。毎年、ほぼ1カ月連日満席となる大ホールは、今年は、王妃、12人の審査員、報道関係者以外は締め出し、その代わりに思い切って、全演奏を国営放送生中継とオンラインによる無償配信としたのだ。
ソーシャルディスタンスを守って座るオーケストラと客席の審査員だけのコンクール
©RTBF-VRT
採算的には完璧な赤字。企業スポンサーと支援者からの寄付、連邦・地方政府からの公的支援、そして、ボランティアの善意に支えられての実施だった。
このコンクールでは、参加者は、期間中はホストファミリーの家に滞在し、決勝前の1週間は、ライバルと共に音楽寮に缶詰になることも特徴だ。商業収益を度外視して手の届くスケールにし、接触する人や環境を極限的に絞り込み、その上で、PCR検査、手洗いや消毒、マスク着用を遵守すれば、安全安心な国際大会は可能であることを実証したのだ。
二人を満足させたもの
1カ月の戦いを終え、5月29日深夜に結果発表があった。その直後に、務川慧悟さん(28才、3位)と阪田知樹さん(27才、4位)に話を聞いた。さすがに安堵と疲労は隠せない。だが、こちらの心を震わせるほどの達成感と向上心が、身体全体からほとばしり出ていた。
二人は東京芸術大学での同期。その後、務川さんはフランスのパリ国立高等音楽院に、阪田さんはドイツのハノーファー音楽演劇大大学院で学び、すでに世界有数のコンクールで入賞し活躍している。それでも、この二人にとって、今回のエリザベートコンクールは、格別の意味があり、そして、予想以上に満足したというのだ。
人としての温かみ
阪田さんは、舞台で見せる威風堂々とした姿とは対照的に、丁寧に言葉を紡ぎながら語る物腰静かな青年だ。19歳の時に、アメリカ最高峰とされる「ヴァン・クライバーン音楽コンクール」で入賞し、一躍注目を浴びた。だが、歳を重ねるうちに、その頃にはわからなかったものが見えるようになってきたのだという。
「プロとしての活動を本格化させる年頃の今、育んできた全てを試す場としてこのコンクールに特別の重きを置いて励んできた」という。延期が伝えられた昨年5月以降は、練習は続けながらも「こんなことをやっている場合か」と何度も逡巡し、「これは現実なのか」と不思議な感覚に襲われたほど、不安だったのだという。だから「これほど安全を第一に、実現してくれた皆さんには本当に心から感謝しています」。素直な本音に聞こえた。
「嬉しかったのは、がらんとしたホールの真ん中に陣取った偉い審査員たちが、無観客という特別な環境で演奏する自分たちを思って、普通ならありえないのに盛んに拍手をしてくれたこと。ホストファミリーが、自分の好きそうな食事をいろいろ作って励ましてくれたこと」
大多数の中の一部としてではなく、一人の人間として大切にされ、温かみのある交わりを通して、「自分がこれから何を目指すべきかが見えてきたように思う」と語ってくれた。
楽しさと刺激が人生の想い出に
踊るような繊細な音色と、個性ある大胆さを併せ持つ務川さんは、インタビューの間、満面の笑顔を絶やさなかった。彼がエリザベート出場を決めたのは、2019年フランスのロン・ティボー・クレスパン国際音楽コンクールで2位を獲得してからのこと。精神的負担の大きいコンクール挑戦はこれで終わりと思っていたが、エリザベートで優勝経験を持つ恩師から、強く薦められたから。「期待を裏切らない楽しさと刺激にあふれたものだった」と何度も繰り返した。
「無観客はやりにくかった…僕にとって、音楽は、お客様の反応を肌で感じ、共に作り上げていくものだから」という務川さん。そんな彼も、コロナによる延期は、大人になって初めて静かに自分の音楽を見つめなおす貴重な時間となったと回想する。
最高の土産は、ホストファミリーでの楽しい日々と音楽寮で受けた刺激だという。「精神的にかなり参ってピリピリしている日も、ホストファミリーとの関わりの中で過ごしていくという経験はかけがえのないものだった」と。
思わずハイファイブで歓びを分かち合う務川さんとホストママ ©Taz
音楽寮では、世界を代表する同世代のライバルたちが最後の音楽漬けの1週間を共に過ごす。「音楽家として僕より数段上の彼らが、夕食の後に、ピアノと戯れながらくつろぐんです。そんな時、彼らの多彩なレパートリーや余裕に圧倒されました。『あ、君のスコア(楽譜)、ちょっと貸してくれない? 暇な時間に弾いてみたいから』なんて、その余裕というか好奇心が、すごい刺激でした」心の底から楽しそうに語ってくれた。
順位よりも、人との交わりが宝
二人の答えに共通していたのは、何位というタイトルへのこだわりでも、プレスやスポンサー対応へのストレスでもないようにみえた。コロナ禍での不安を忘れ、音楽に集中できる喜び、人との交わりから得た質的な成果。それが自信となり、さらに向上したいという生き生きした願望に昇華されている感じだ。
「安心安全」とただ繰り返しても、安心安全は実現できない。
商業収益を度外視しても、一人ひとりを家族のように大切に扱えるようにスケールダウンし、どこの国の名誉でもなく世界の宝として、若者の努力と健闘を祝福すること――エリザベートコンクールは、コロナ時代の国際大会のあり方に、一つの好例を見せたように思える。
*準決勝、決勝の演奏は、今も、このサイトから視聴できる。