リスキリングという言葉を聞いたことがあるだろうか。日本では、よく「リカレント教育」とセットで語られ、政府や経済産業省などがDXと絡めて、「企業にとって即戦力となる人材を、大企業内での人材教育か、民間教育機関にビジネスチャンスとして丸投げして、公的資金をつける」というような産業政策として語られているようだ。EUが推し進める汎ヨーロッパ中長期戦略としての取り組みはどういうものなのだろう。
この記事は、もともと、ある公的機関の内部記事として用意されたもののため、書きぶりはかなり硬い。それでも、EUのやり方が、市民一人ひとりから始めて、社会のすべてのステークホルダーを巻き込んだ本気の取り組みであることがわかるのではないだろうか。誰一人置き去りにしない。町の零細企業も置き去りにはしない。欧州を代表するような多国籍大企業も、地元の専門学校も、世界的に知られる総合大学も、皆で一緒に取り組まねば、欧州の明日を担う産業育成と必要な人材を育てることはできない覚悟と誠意が感じられるのではないかと思い、ここに掲載する。
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2020年以降、世界は、新型コロナウイルス感染拡大やエネルギーの価格高騰など、未曽有の試練に見舞われた。欧州も例外ではなく、市民の生活を守るのはもちろんのこと、来たる産業転換に積極的に立ち向かう施策が急務となった。EUは、まず、EUの未来のために育てるべき産業分野を見定め、必須なスキルを特定して、そのための訓練や学習を促進してスキルを身に付けた人材こそが欧州の将来を切り開くと確信した。本稿では、これからの産業転換に必須となる新しいスキルの取得と向上を奨励すべく、さまざまな社会のステークホルダーが連携して取り組む5カ年計画「欧州スキルアジェンダ」に、スポットを当てて概説する。
GXやDX実現に向けて。一人ひとりのスキル取得や向上で強靭な社会へ
今年で任期満了となる現欧州委員会のウルズラ・フォン・デア・ライエン氏は、ドイツ出身でEU史上初の女性委員長だ。彼女は、就任した2019年12月、人々の幸福と健康の向上を目的とし、雇用を創出しながら、気候変動や再生エネルギー転換を前面に打ち出した、新しい成長戦略「欧州グリーンディール」を発表した。
この戦略に沿って、2020年初めに包摂的な社会政策として示されたのが、「欧州社会権の柱(European Pillar of Social Rights) 」だ。これはEU社会のルールブックともいえるもので、20の基本原則が明示されている。その第一として挙げられているのが〈教育・訓練・生涯学習〉で、続く7月に「欧州スキルアジェンダ(European Skills Agenda)」が刷新された。
「欧州スキルアジェンダ」とは、EU市民が気候中立化への移行(GX=グリーントランスフォーメーション)やデジタル社会への移行(DX=デジタルトランスフォーメーション)に適応できるスキルを向上(アップスキリング)させたり、新たな分野で活躍できるスキルを取得(リスキリング)させたりすることで、上記の社会権を享受できるように支援するための5カ年計画を指す。
その目標は、(1)前述した基本成長戦略「欧州グリーンディール」に即して、EUとしての持続可能な競争力を高めること、(2)「欧州社会権」の一つとして、市民の誰もがどこでも〈教育・訓練・生涯学習〉にアクセスできるようにすること、(3)コロナ禍から得た教訓を生かし、危機的な状況に対するレジリエンス(強靭性)を培うことだ。
欧州委員会が提唱する「欧州社会権の柱に関する行動計画(The European Pillar of Social Rights Action Plan)」によれば、具体的には2030年までに、成人就労人口(20~64歳)の約8割が就労し、6割が毎年何らかの形で訓練や研修に参加でき、そして貧困や社会的疎外のリスクを被る人の数を、成人就労人口の0.01%にも満たない1,500万人にまで減少させたいとしている。EUでいう就労とは、日本でいう非正規雇用のような不安定な雇用は含まず、経験のない若者や、失業中の人がほとんど個人負担なく希望した訓練や研修を受けられるようにすることを意味している。
ところで、EU戦略の中には、日本でいう「リカレント教育」が出てこない。それは、EU内では、国連やOECDなどが推奨する「高校以上の大学や大学院相当などの高等教育の無償化」がほぼ達成されていて、入試もないので、いつでもだれでも高等教育機関に戻って学ぶことができる社会になっているからだ。一度学校を離れても、人生の中で少なくとも3回は再び気楽に教育機関に戻り、リカレント教育として知識や技術を更新できる…そんな社会はほぼすでに実現しているのだ。
EUとして具体的支援パッケージ「欧州スキルアジェンダ」
コロナ禍では、EU域内でも、何百万人もの人々が失業や著しい収入減を経験した。リスキリングして、異なる分野での職を探さなければならなくなった人や、アップスキリングしなければ職を失いかねない人も多くなった。また、経験の乏しい若者にとって、停滞気味な労働市場での職探しは厳しい。EUは社会全体として、厳しい経験から学び、次世代産業を育成して危機に強い社会にすることを目指している。
策定された新しい「欧州スキル・アジェンダ」は、次の表の通り、12のアクションから成っている。
リスキリングやアップスキリングについての施策は、国や地域政府、教育研修機関、企業、商工会議所、職安などがそれぞれで考えてバラバラに行うよりも、多くのステークホルダーが協働のプラットホームを築いて取り組んだ方が、重複やコストが省けて効率的だ。それに、社会全体としてGXやDXを推進していく上で必要な知識や技術や技能を分析し、組織的に提供することも可能になる。
そこで、第1のアクション「スキルのための協定」は、様々なステークホルダーが、まずは協働のために「憲章」を策定して進めよというもの。それをEUが手伝い、資金面でも支援する。昨年3月の時点までに、1000以上の機関や組織が憲章に合意し、自動車、電子通信機器、航空・防衛などの業界や地元の地域経済が、市民のためにリスキリング・アップスキリングを行うために協力しあうことを約束。一つの自治体や一つのメーカーが個別に研修や技能クラスを設けるというのではなく、いくつかの国をまたいで、あるいは産業横断的に、様々な協働のプラットホームを作って、合同でリスキリング・アップスキリングの授業や研修を提供した方が無駄がない。
たとえば、日本国内だけではなく、韓国や台湾などと協力して、半導体開発技術者への技術研修を英語で一緒に実施する…。自動車産業とSNSプラットホームプロバイダーの産業が協力して、自動車用AI技術の研修を提供する…。そんなことが想像できるだろうか。
アクション11として掲げられているのは、新たなスキルを習得した市民がEU内でそのスキルを証明できるユーロパス(Europass)という仕組みの構築だ。たとえば、英語能力は、日本なら英検、世界的にはTOEICなどと示せば、その人がどの程度の英語力を習得しているかを示すことができる。だが、英検は日本以外では通用しないし、そもそもTOEICだって、紙の証明書があっても本物であるかどうかを確認することは難しい。 こうした資格や技能を、欧州という広い地域で通用する統一オンライン規格にしようというのがユーロパスだ。従来のような紙の証明書や主観的なCVに代わる次世代のオンライン上のスキル・パスポートのようなもので、登録者が取得した技能や資格をしかるべき方法で入力すれば、閲覧権を付与された雇用主や教育機関などがアクセスして確認できる。20年7月以来、470万人が登録し、5670万回以上のアクセスを記録。加盟国間での資格やスキルの標準化を助ける「デジタル・クレデンシャル」(アクション10)の利用拡大と共に、求職やさらなる習得・研修への応募などに、安全で便利なデジタル資格・技能証明として今後の普及が期待されている。
数値目標や財源も示す―検証を可能にするやり方
また、2025年までの明確な数値目標も以下のように提示されている。検証可能な数値目標を提示して、定点調査したデータで確認することも、達成できていなかった時点で引き返し、施策を変更することも、EUはとても重視している。
財源としては、主なところでは、欧州社会基金プラス(ESF+)から615億ユーロ、エラスマス予算(EUとしての留学・研修調整予算)から162億ユーロ、InvestEU(EUの産業育成予算)から49億ユーロなどが充当される予定で、また、コロナ禍で予算計上された欧州復興計画(20年7月)からも相当額が投じられることになっている。
GXやDXへと大きく舵を切った欧州では、働き方や学び方、社会との関わり方、そして日常生活の暮らし方に至るまで、本質的な変革の必要性に直面しているとの認識ある。EUは、欧州市民がこうした変化を前向きに乗り切るための適切なスキルを身に付けられるように着々とリスキリング政策を推し進めている。
<ある公的機関向けの課題記事より、執筆・編集nt氏の許可を得て転載>
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掲載後記
気候変動やエネルギー危機に加え、感染症や戦闘など、地球社会はあまりにも多難な局面を迎えている。
次世代に向けての安定成長を担保し、社会としての健全さを保つことは、企業や個人に散発的にお金を投じてみてもとてもできそうに見えない。
企業任せにしない、個人任せにしない―――。次世代の包摂的な市民社会のために、責任あるリーダーと集合知による緻密なアクションが必須のように見える。