「モラルとは何か」。この問いは、2年前、新型コロナウィルスが世界の日常を支配し始めた頃から、私の中でゆっくり輪郭を現していった。今年2月末、突如として始まったロシアのウクライナ侵攻で、その輪郭はさらに姿をはっきりさせた。以来私は、自分と他者、個人と全体、一国と世界という関係性の中で、モラルについて考えて続けている。 「Z世代へのバトン」は、私たちのウェルビーングについての考察である。真のウェルビーングを獲得するためにも、恐らくは私を含めて多くの人がぼんやりとしか捉えてこなかったモラルについて、今とことん考えるべきではないかと思っている。
時代の要請に制約されるモラル
モラルとは、一般的には道徳、倫理と同義である。モラルは人の中にある良心と深く結びついていて、自分の考えや行動を決めるときのガイドラインとなる。自己規範ともいえるだろう。しかし、哲学者の伊藤勝彦(故人)*は、こうも論考した。
「時代の転換期における新旧思想の対立は、なによりまずモラルの問題をめぐっておこってくる。(中略)モラルは外的規範と無関係に成立する、単なる主観的なものではない。それはつねに、その時代の社会生活全体によって深く制約されている。いわば、社会のうちから生まれた外的要請と個人の内的自発性が一致する地点においてモラルは成立する」** ヨーロッパで戦争が行われている中、この考察は非常に今日性がある。プーチンも西側諸国も、自らが信じるモラルに従って行動しているわけだ。人間の歴史は、時代により変化するモラルに翻弄されてきたとも言える。
ドイツ の武器供与をめぐる二つの公開書簡
いまドイツでは、政府がウクライナへの重火器供与を決定したことのモラルについての議論が活発化している。ドイツは早くからウクライナ支援を表明し、同国に対しこれまでに18億ユーロの資金援助を行い、60 万人のウクライナ 避難民を受け入れてきた。しかし、昨年末に発足したばかりのショルツ政権は、重火器の供与には長い間消極的だった。第二次大戦後、ドイツでは一貫して軍事力よりも対話による平和外交の方針が貫かれていたからだ。それでも結果的には西側諸国や連立政権内の圧力に抗しきれず、4月末にウクライナへの対空戦車50両の供与を決めている。
供与決定3日後の4月29日、フェミニズム雑誌Emma オンライン版に、ある記事が掲載された。「ショルツ首相への公開書簡」と題するものだ。同誌発行人のアリス・シュヴァルツァー氏を筆頭に、作家、芸能人、大学教授、科学者など28人が連名で署名している。
この文書は、ドイツ政府のウクライナへの重火器供与に反対している。要約すると以下のような内容だ。
書き手たちはロシアのウクライナ侵攻が国際法に違反しており、ウクライナが自国を防衛することの必要性を認めながらも、ドイツはこれ以上ウクライナに重火器を供給するべきではない、とする。なぜなら、武器の供与が戦闘をさらにエスカレートさせ、犠牲者を増やし、核戦争と第三次世界大戦のリスクを高めるからだという。そして何よりも「ドイツ自身が戦争の当事者になる可能性がある」。武器供与という形でなく、「双方が納得して妥協し、一日も早く停戦にこぎつけるよう最大限の努力をしてほしい」と首相に訴えている。
自分が消されるなら戦うしかない
この書簡が公開された4日後、ショルツ首相に対する第二の公開書簡がアップされた。今度はオンライン署名サイトchange.orgだ。緑の党のラルフ・フュックス氏を発起人とし、大学教授、ジャーナリスト、元大臣など57人が署名している。ピアニストのイゴール・レヴィット、ノーベル文学賞を受賞したヘルタ・ミュラーの名前もある。
彼らは、「ロシアのウクライナ攻撃は同時に欧州の安全保障に対する攻撃でもある」と定義した上で、ドイツの武器供与を正しい決定であるとし、たとえドイツが戦車や榴弾砲のような重火器を供与しても、ウクライナが自衛のためにそれを投入するなら、それは防衛兵器であると論じている。また、プーチンの目的がウクライナ という国家そのものの抹消にある以上、もしそれが成功すれば、同じ論理に基づいて次の戦争がNATOの領域内で起こる危険が増す、と主張する。さらに、ナチズムの過去を「二度と繰り返さない」と公言しているドイツにとっては、武器供与を含むウクライナへの支援が、自らの言葉にどこまで忠実であるかを証明する試金石となる、と明言している。
両方の書簡を読んで、戦時におけるモラルとは何か、ということを考えた。基本的には、私は後者の主張に共鳴する。武器を使って意図的に人を傷つけることは、平時であればもちろん言語道断だ。そのための武器を提供することは、間接的に殺人や暴力に加担することである。しかし、攻撃者の自分勝手な思い込みのために、私という存在が抹消されそうになったら、私はもちろん戦うだろう。
第一の書簡が言うように、「双方が納得して妥協し、一日も早く停戦にこぎつけるよう最大の努力をする」のが失敗しているからこそ、ウクライナで戦争が続いているのである。第一の書簡の書き手たちは、「ドイツが戦争の当事者になる」ことを危惧するが、ロシアによる核兵器投入で西欧全体が一瞬にして放射能汚染されるリスクを除外できない現在、ドイツの私たちは事実上すでに当事者ではないだろうか。
キーウからの手紙
第二の公開書簡の掲載と同じ5月3日、ドイツのフランクフルター・アルゲマイネ紙に「私たちは降伏しない」と題した手記が掲載された。これを書いたのはウラジミール・クリチコ氏。2014年からキーウ市長を務めるビタリ・クリチコ氏の実弟で、ボクシングの元ヘビー級チャンピオンでもある人物だ。
この手記は明確で説得力のある文章で、私の頭の中を整理してくれた。同氏は兄とともに、ロシアの侵攻直後から予備役の一員としてキーウ市を防衛している。手記の一部を以下に抜粋、要約した。
「わが国が(ロシアによる)戦争犯罪を確認し、東部と南部でできる限りの防衛を組織している間に、ドイツでは武器供与に関する論争が起こっている。『戦争が長引くから武器を供与するな』という手紙(注:上記Emmaの公開書簡)も公開された。その文章は、第三次世界大戦を防ぐために、戦いを止め、武器を捨てることを要求している」
「ここでいくつかの点を明らかにしておきたい。まず第一に、宣戦布告したのは私たちではない。ヨーロッパの中央にある自由な独立国を、単に侵略して征服しようと決めたのは、プーチンの帝国主義という狂気である。第二に、そう、私たちはこの侵略に対して自衛しているのである。第三に、自衛のためには武器が必要だ。私たちは侵略者が自国に戻るまで自分たちを守る。第四に、ドイツは自らの責任を自覚し、ウクライナの自由の維持を支援することを決めた。(中略)ドイツは、ウクライナがウクライナ人の命をかけてヨーロッパが大切にしてきた価値を守っていること、そして、ヨーロッパの武器を使ってそれをするべき時に来ていることを理解している」
平和のために何を犠牲にするのか
「私たちの抵抗を主戦論***とし、プーチンへの挑発行為と表現するのは、まったくナンセンスだ。ウクライナは民主主義国家なので、ロシアの帝国主義政権にとっては私たちの存在自体が挑発である。私たちは、独裁者の殺人的な狂気と時代遅れの夢をなだめすかすために、(民主主義という)アイデンティティを返上することなどしない。ましてや、現実感覚と理性を失ったかに見える一部の『知識人』を喜ばせるために、それをするなど論外だ」
「私は言いたい。盲目的な平和主義は、おめでたい主戦論と同じくらい危険である。この議論は、残念ながら、一次大戦と二次大戦の間に起こった議論を彷彿とさせる。当時も今日も、いわゆる平和主義者たちは、どんな代償を払っても平和を望もうとする。当時、ヨーロッパのあちこちの首都では、『戦争の代わりにヒトラーとファシズムを』という言葉が聞かれた。それなら今は、『戦争の代わりにプーチンを』とでも言うのだろうか? とにかく平和が大事、しかしその代償は? 私たちの自由? 私たちのアイデンティティ? 私たちの誠実さ? 絶対的な善は平和ではなく、自由と正義だ。そして、それを守るために人は戦わなければならない」
キーウから送信されたこの文章は、ストレートで現実的だ。それこそヘビー級のカウンターパンチのような強靭さがある。「絶対的な善は平和ではなく、自由と正義だ」という彼の主張を、私たちはどう受け止めるべきだろうか。
戦争を起こさないための新しいモラルをつくる
他者を殺すことをモラルの上で正当化し、だからそれを容認する。端的に言えば、それがウクライナと西欧の現在のあり方だと思う。でも、人が殺し合いをしなくてよければ、そのほうがずっといいに決まっている。第二次大戦後の世界は、その目的のために国連を設立し、EUを創設し、鉄のカーテンをはさんで東西がせめぎ合いながらも平和を維持してきたのだ。ただ、核抑止力とグローバル化による相互依存という仕組みに頼ってきた安全保障が脆弱であったことは、プーチンの狂気によって十分すぎるほど証明された。だからいま、モラルについてじっくり考え、その上で世界の新しい行動規範を作り直していくべきなのだと思う。それが万人のウェルビーングの不可欠な部分になるはずだ。
5月13日現在、第一の公開書簡の署名者数は27万人、第二の書簡は同68000人に達している。少なくともこれだけの数の欧州人が、戦時のモラルについて真剣に考え、意思表示したわけだ。この戦争をきっかけに、戦時のモラル、時代の転換期におけるモラルについて、今後も活発な議論が繰り返されることを願っている。
*伊藤勝彦(1929〜 2015):哲学者、評論家。デカルトとパスカル哲学を中心に論考した。
**出典:小学館日本大百科全書
***主戦論:開戦論とも。戦争をしようと主張する論。