最終編では、民主主義を形だけにしないために、社会に、教育に、何が必要なのか、デンマークでの体験から思考してみたいと思う。選挙で議員を選べるからと言っても、投票率が猛烈に低ければ、デモやストをする権利があっても、誰も行使せず、政治が市民の声を聴くつもりもなければ…。生きることに忙しすぎて、コスパもタイパも悪すぎる? 育てなければ、守らなければ、時間をかけなければ、民主主義は風化してしまう…。
「コンセンサス会議」はこうして生まれた
デンマークの合意形成(コンセンサス・ビルディング)は日本でも日本でもひと頃ちょっとしたブームになったことがある。科学技術に関する政策は社会的にインパクトが大きい。そうした政策分野においては、政治家や官僚、専門家や企業任せにするのではなく、市民がその合意形成の一角として、深く関わるべきとの考えと方法論のことで、80年代にデンマークで確立され、デンマーク社会ではしっかり定着している社会のしくみだ。
デンマークでも、オイルショック直後は、他の欧州諸国と同じように、原発に手を出すかどうかが国を挙げての議論になった。その時、市民が大きく声をあげ、国のエネルギー政策決定に大きな役割を果たしたことが、国の政策決定のしくみとして「コンセンサス会議」ができるきっかけとなったのだという。以降、農業や産業における遺伝子操作技術、動物の遺伝子操作、ヒトゲノム計画、遺伝子治療、不妊治療、庶民のための交通の未来などと言ったテーマで、毎年、コンセンサス会議の方式が活用されている。
国民や専門家が、どんなに問題満載だと抗議して署名活動やデモを繰り返しても、事故を起こした原発冷却処理水の海洋放出、ICチップ搭載のマイナカードなどをゴリ押ししてしまう国と比べて、社会的な重要事項の決定方法にこれほどの違いがありえるのかと驚いてしまった。
なるほど、そういう背景があったからこそ、コロナ禍におけるデンマーク社会は、他国の政策に影響されることなく、市民を巻き込んで合意された独自の感染予防策がとられ、市民が粛々と守ってきたのだと腑に落ちた。完全なロックダウンをついに行わなかったのは、日本ではスウェーデンがよく知られているが、デンマークもほぼ同様だったからだ。
ところで、デンマークの都市近郊電車は、まずは大都市から四方に広がり、その終点の駅から、さらに四方に支線が張り巡らされている。他の欧州都市でよく見かける最新のトラム(路面電車)のように、短くかわいらしく合理的に設計された車体で、自転車やベビーカーがプラットホームから段差なくスムーズに載せられるノンステップ方式。人が乗る場所と同等かそれ以上に自転車やベビーカーを整然と並べて置くスペースが設けられていて、それらを押して乗る利用者が極めて多いことがわかる。支線は単線で、1時間に1~2本と本数は少なくなるが、利用者の少ない駅ではオンデマンド方式で、プラットホームの支柱についているボタンを押さないと電車は駅に泊まらず通過するところは路線バスのようでもある。地下鉄よりも建設コストがかからず、バスよりも渋滞の影響を受けない。国中のすべての年齢層のために公共で支えられた公共交通機関は必須と考え、それを再エネによる電力で運輸を担おうという政策にも、市民の意向が大きく反映されていることがはっきりとわかる。利潤追求の私企業では利用者が少なければ廃線もやむなしと考えることとは、対極的な発想の違いだ。
民主主義を担う人間を育てる
私を案内してくれた友人が、「フォルケホイスコーレ(folkehøjskole)」の話を始めた。学歴や学習到達度に関係なく、18歳以上なら誰でも学ぶことができる全寮制の成人教育機関なのだという。デンマークでは19世紀以上広く奨励されており、そのジュニア版ともいえるエスタスコーレも含め、ほとんどの市民が一度はこうした機関で学ぶらしい。長短さまざまなコースを提供する機関が全国にあり、ここ数年、参加者はさらに増加しているという。
少し調べ始めると、デンマークで見聞きしたものが、ジグソーパズルのようにつながって、全体像が見えてくるように感じた。
フォルケホイスコーレは、19世紀に、牧師であり教育・哲学分野で功績を残したグルントヴィという人がその理念的柱を作り、デンマークの農村で始まった社会教育機関だ。グルンドヴィは、「教育とは、互いに光を当て、影響しあって、共に成長すること」として、自然環境の中で、一人ひとりが尊厳や自信を取り戻し、社会意識を目覚めさせ、よりよく生きるために、自分や社会や世界と向き合うことを目的とするのだと説いた。
そう、それだ、デンマークの市民社会をぶれることのない梁のように貫いている何かが、この理念にあるのではないか、デンマークの民主的な社会に地下茎のように根を張っているのはこれではないかと、突然合点がいった。短期的に即戦力となるスキルや資格を身に付ける教育ばかりをもてはやす、日本や世界の風潮とは真逆なものだ。
エコヴィレッジの後で、お茶を飲もうと「デモクラシー・ガレージ」に立ち寄った。一見すると、最近あちこちにありそうな、フードコートのようにも、コワーキング・スペースのようにも見える。
「ここはいったい何なの?」と唐突に尋ねてみると、「民主主義をよりよくし、推進したいみんなが集まれる場所」との答えが返ってきた。確かに壁一面に貼られたイベント予定やホームページを見てみると、民主主義に関連する研修、講演会や討論会、ワークショップ、文化イベントなどが目白押しだ。それでいて、ふらりと立ち寄りたい市民のためのシンプルで心地よい居場所にもなっている。
まだ小さな赤ちゃんを乗せた乳母車を押すママ友グループが目を引いた。「チャイルドナースが紹介したグループだと思う」と友人。デンマークでは、子育て中の親が孤立しないように、妊娠中から、子育ての手ほどきや相談にのるチャイルドナース(pædiatrisk sygeplejerske)が自宅に何度も来てくれて、ご近所で同じころに出産予定の親たちを引き合わせてくれたりもするのだという。そんな赤ちゃん連れのママ友が、デモクラシーを語り育てる場を居場所にしていること自体が、なんだか無性にデンマークらしいとうっとりしてしまった。もちろん、紹介されたママやパパが仲良し仲間になるかどうかはわからなくとも、「現金バラマキ」以外の、実質的な子育て支援の一つの具体例を見たように思えたからだ。
フォルケホイスコーレの理念を考えたグルンドヴィはまた、かつて、教会や権力者などのエリートによるラテン語偏重に抗い、「デンマーク語は母から子に受け継がれた豊かで美しい民衆の言語」とデンマーク語への誇りを回復したのだということも知った。たった人口600万人のこの国が、デンマーク語やデンマーククローネという通貨をとても大事にする理由にもわずかながら触れたように感じてほっこりした。祖国を愛する心というのはこんな風にしてはぐくまれるのではないかと。そして、私の住む国に、「ベルギー語」が現存しない切なさもふと感じた。
議会や選挙やパブコメのような制度さえあれば、「民主主義」というわけではない。私たちは、制度があれば、多数決で決めれば、公正だ、民主的だと思っていないだろうか。
制度が形式だけになり、世襲や縁故主義がまかり通る社会に、突然「エコヴィレッジ」や「コンセンサス会議」を移植しようとしても、民主主義を担う人間を育てる基本的な仕組みを築き、年月をかけてそんな人材をコツコツと育てなければ、移植した葉や幹が息吹を吹き返すはずもない…短いデンマークでの学びの旅から、これからの社会を考える思考の旅を始めたかのように思えた。
合わせて前編「ストーブも湯沸かし器もない北国」も、ぜひに。
合わせて中編「共同居住エコヴィレッジは持続可能か」も、ぜひに。