2025年10月、日本から伝わってきたニュースにびっくりした。「国際日本文化研究センターの前所長で名誉教授、小松和彦さんに文化勲章を授与」、妖怪学が評価されたのだという。小松さんのおつれあいは、私の高校時代以来の親友。和彦さんの研究も長い間傍から面白く見ていたので、この研究分野が、受賞によって、大いに注目されるであろうことをうれしく思った。
新聞報道によれば、「学生時代、民俗学の実習で訪れた埼玉・秩父の山村で狐憑(きつねつ)きの民間信仰にひかれ、この道へと足を踏み入れた。しかし、長い間『妖怪を研究している、と言うと笑われました』とある。たしかにこの研究テーマが民俗学の王道に躍り出るまでには、それなりの社会の成熟が必要だったのだろう。たとえば女性学が社会学や歴史学などの重要な研究分野になるまで要したのと同じくらいの時間が。
「お化けの研究」で文化勲章
これを機に、あらためて小松さんが提唱してたくさんの協力者と作り上げた日文研の妖怪データベースを見てみる。古典的な河童や天狗やろくろ首のたぐいから、口裂け女やトイレの花子さんまで網羅している。こういう学校の怪談みたいなものは、私自身もこどものころ、実際に経験した。

小学校の帰り道、通りに一軒「幽霊屋敷」と呼ばれるツタのからんだ高い塀に囲まれた洋館があって、昼間でも、入り口のよろい戸をひっそりと閉ざしていた。私たちはその前を、いつも全速力で駆け抜けた。角を曲がると、光る石の拾える小道、それから、片側が崖になっている秘密の抜け道があって、そこを目のくらむ思いで通り過ぎる。なにしろ、そのあたりは、「かみそり婆さん」が出没する場所なのだ。早く通り過ぎないと、後ろからその婆さんが追いかけてくる。それはこどもたちの世界では、ごく普通の共通認識だった。世界は謎に満ちている。その謎と地続きの世界に住んでいた私たちこどものありかた、そういうところが、怪談の原点なのだと思う。
オンディーヌと河童
2024年春、日本を代表するピアニストの一人である福間洸太朗さんから、光栄にもケルン日本文化会館で開催される彼のコンサートで、俳句の朗読をしてほしいと頼まれた。それは、彼の名前にちなんで「きらめく水」と名付けられた水に関する作品を集めた演奏会で、その中でティエリー・ユイエというフランスの現代作曲家の7つの俳句による曲も演奏されるのだった。俳句をまず日本語で読む、その後、俳句の雰囲気を表現するピアノの短いパッセージが続く。せっかくなので、それぞれの曲想がドイツ人聴衆にも分かるように、私がその日本語の俳句をドイツ語に訳してみた。7つの俳句のうちの一つがこれだった。
河郎(かわたろ)の 恋する宿や 夏の月 蕪村
かわたろ、すなわち河童である。この河童を私は「Flusskobold」と訳した。ところが実際に福間さんと俳句の朗読も含めて練習をするとなって、その曲があまりに河童のイメージからかけ離れていたので驚いた。その時初めて、私は気が付いた。フランスの作曲家はこの俳句をまずフランス語に訳したものをもとに作曲したのである。その最初の訳では、河童が「オンディーヌ」になっていた。さもありなん。「オンディーヌ」とは水の精で、人間の男性との悲恋を描いたバレエ「オンディーヌ」で有名である。
フランス語の訳者は、水に住んでいる想像上の生き物ということから、これをオンディーヌと訳したのだろう。この曲はいかにもドラマティックな悲劇の結末を暗示する作品だった。しかし、それは私たち日本人の持っている河童のイメージからは程遠い。なるほど、この蕪村の俳句では、たしかに河童がその宿に住む人間に恋したと理解できるのだが、季節は夏の夜、そして河童の持つなにがしか剽軽な性格から来る、ある種のペーソスも感じられる。河童はオンディーヌではないのだ。しかし、そのフランス人の曲を変えることはできないので、私は蕪村の俳句を当日は、やや思いつめたように朗読した。

小人の広がり
私がドイツ語に訳したFlusskoboldは、実は二語から成る造語である。Flussは川、そしてKoboldこそ、ドイツ文化圏に特徴的な家に住む妖精である。Koboldは、グリムの『ドイツ伝説集』にも収録されている、家に住む小さな人間やこどもで、厨房や家畜の世話などを手伝ってくれるが、いたずら好きな面もあり、扱い次第では仕返しもされる。そのため、毎晩台所に、ミルクなどをお供えしておくことが必要だと信じられた。家に住んでいるということで、いたずらを仕掛けるなど、岩手県に伝わる座敷わらしを想起させる。

その語源にはさまざまな説があり、Koboldが鉱山と結びついて、鉱物である「コバルト」の原語であるという解釈も広く流布している。銀の鉱脈を求めていた中世の鉱夫たちは、鉱山の穴の奥にこの妖精が住んでいると信じており、銀が見つからなかったのは、この妖精のせいだとした。銀の代わりに見つけたのが、コバルトというわけである。
ドイツ各地には、このKoboldの変化形と思われる妖精の存在が分布している。ちなみに、ドイツを代表する家電メーカーであるVorwerkは、Koboldという名前をもつ掃除機をシリーズで販売している。最先端の技術を用いて家庭に快適さをもたらすシンボルとして、逆にこのドイツの伝統的な名前を採用しているのが面白い。
Koboldは、白雪姫に出てくる小人にも強い親近性がある。小人が山からスコップを持って帰ってくるという描き方は、鉱山の妖精を思わせる。実は小人伝説はヨーロッパに普遍的なものだが、19世紀にグリム兄弟がドイツの民話を収集して出版して以来、この7人の小人がもっとも定型的なものとなった。
そもそも、グリムがこのような仕事をした背景には、芸術至上主義をとっていたドイツロマン派に対して、ナショナリズムが高揚してきた歴史がある。土着の民衆文化に目を向けた結果、数々の民話とそこに登場する想像上の産物に光が当てられたのである。オバケがある意味、市民権を得たのだ。
今でもドイツのガーデンショップに行くと、小人の像が定番で売られている。典型的な小市民層、また中高年層の庭にはよくこの小人たちが飾られているのだが、それは筆者の住む旧西独側では、どちらかというと昔ながらの伝統にしがみついていることをバカにする笑いの対象である。もともとこの小人像は19世紀、旧東独テューリンゲン地方の工房が制作して広がった。勤勉さ(Fleiß)倹約(Sparsamkeit)家庭性(Häuslichkeit)が19世紀ドイツ市民道徳の視覚化につながったらしい。またイギリスへ輸出されて、そちらでも大人気になったのだという。もっともこれは、ナチスの趣味に合わずに消滅しかかっていたのだが、逆に戦後東ドイツ時代では生き延びた。意外にも、この市民道徳が社会主義の理想と合致していたためと推定されている。そこで、ドイツ統一後再びまたポピュラーになって、ドイツのガーデン文化のアイコンとなっているのである。
白い女
もう一つ、ドイツのオバケでポピュラーなのは、「白い女」である。主にドイツ語圏の城や、貴族の館に現れるという。最も有名な説では、14世紀のクニグンデ・フォン・オルラムンデ伯爵夫人がモデルとされているのが起源だという。彼女は再婚を望む相手(ホーエンツォレルン家の城伯)の気を引くために、自分の二人の子供を殺害したという罪悪感から、死後も彷徨っていると伝えられている。 ベルリン王宮(Berliner Schloss)やバイエルンのプラッセンブルク城など、ホーエンツォレルン家ゆかりの城に多く現れることで知られている。
不幸な死や罪、裏切りと結びついた存在で、ときに一族の死を予告する不吉な前兆として描かれる。ヨーロッパによくある「白い貴婦人」伝承のドイツ版ともいえる。そして、この不可思議な女性の幽霊は、いまだに出てくるというのである。この出現理由は、日本人にもわりあいよく理解できると思われるし、その幽霊の形態からも、あまり日本の幽霊と差異がない。
こういう「たたる」という幽霊が洋の東西を問わず存在するというのは興味深い。キリスト教世界であるドイツでも、死んだあと、思い残すことがあって死にきれず、今度は生きている人間にたたるという考え方があるわけだ。成仏しそこなったと書くと、キリスト教の死生観にはそぐわないが、なにか人間が根源的にそのようなものの存在を感じるということは共通するらしい。現実と、それをもう一つ越えていく地平とつながる人間のありかたが、幽霊を生み出す人間の普遍的な欲求なのかもしれない。

賢いキツネ
ここで少し、動物について書いてみよう。日本ではキツネとタヌキの化かし合いのように、動物が擬人化されて、人間と関わる存在となる。そもそもタヌキは、東アジア原産で、ドイツに入ってきたのは20世紀以降であり、侵略的外来種という位置づけである。それに対してキツネは昔からドイツ人にとってはなじみ深かった。日本のようにキツネが化けて、人をだますということはないが、ヨーロッパ共通の動物伝承をもとにした「ずる賢いキツネ」の擬人化キャラクターである。ゲーテによる「キツネのライネッケ」が特に有名で、狡猾で、機知に富み、権力を言葉で出し抜く存在で、社会や権力への風刺が強い物語として構成されている。

実は、私のドイツの苗字、フックス(Fuchs)は、まさにキツネというドイツ語の単語である。ちなみに、ドイツ語の苗字には、Wolf(ヴォルフ=オオカミ)Bär / Baer(ベール=クマ)Hase(ハーゼ=ウサギ)Adler(アドラー=ワシ)Vogel(フォーゲル=鳥)Storch(シュトルヒ=コウノトリ)など動物の名前が多い。 動物の特性、たとえばキツネならずる賢い、オオカミなら強い、ウサギなら足が速いなどを人の特色に反映させて、名前として採用されたのだと推定されている。森に近い狩猟などの生活形態を営んでいたゲルマン民族の痕跡と言えようか。
ちなみに、ドイツのキツネの色は赤毛で、日本の黄色に近いキツネとは見た目にもかなりの違いがある。したがって、絵本に描かれるキツネは皆赤い。日本の稲荷さまの使いとしてのキツネはそれなりに神聖で超越する感じがするが、ドイツのキツネはずっと雄弁で、世俗的存在である。
森の存在
日本には「聞き耳頭巾」というかなり知られた昔話がある。動物を助けたおじいさんが、その動物からもらった頭巾をかぶると、動物や植物の声が聞けるようになった。彼らの話を聞いたおじいさんが、長者の娘の病気の原因が、クスノキの木の上に立てられた蔵のせいと分かり、それを長者に伝えて、蔵をどかすと娘の病気が快癒し、おじいさんがほうびをもらったというあらすじである。ドイツにこのような動植物と対話できるようになる魔法の話がないか、調べてみたが、それに比定できるものはなかった。しかし、代わりに浮上したのが、森の存在である。
あのヘンゼルとグレーテルが出かけて魔女に出会う森は、ドイツ人にとって、生活圏のすぐ横に広がる異界である。そこはゲルマン古代では、神々や精霊の住む場所と信じられていた。キリスト教が入ってきてからも、そこは近づいてはならない場所であり、妖精や幽霊などと出会う場所と信じられた。
森の木は、人と対話しない。逆に森の静けさが、異界の存在との出会いを演出している。ロマン派の文学などでは、その木々の中に埋没していく人間存在が描かれる。このあたりは、日本のアニミズム的世界観と似通っているように見えながら、しかし、その中心には、言葉を使う存在である人間が屹立していて、あくまでもその自我と自然とのかかわりがテーマ化される。
言葉から表出されるオバケたち
オバケや妖怪、幽霊など、その歴史的背景は異なるものの、こういうものが日本にもドイツにも共通して文化の基層にあるということは興味深い。大昔、大学でフランス語文法を学んだとき、直説法のほかに接続法・条件法があるという項目についての授業で教授が説明したことを思い出す。
「僕たちが生きている世界を直接表現する言葉だけだと、人間の文化の価値も面白みも半減する。人間は、欲望も願望も感情も仮定条件も考えることができてこそ、人間という存在なんだ。」
言語学の専門家でない私が言うのもなんだが、基本、どんな言語にもそのような表現形態があるのではないか。私が不思議に思うのは、日本語でたとえば「私にお金があったら、外国に行くのに」という表現(注)をドイツ語や英語に直すと、Wenn ich das Geld hätte, würde ich ins Ausland reisen.(ドイツ語) If I had money, I would go abroad. (英語)どちらもお金があったら というところが過去形ないし、過去形のヴァリエーションになることだ。日本語でもヨーロッパ語でも、過去は戻らないと理解され、そのように表現される。つまり、この願望は決して達成されないのである。
同じことが、幽霊の存在にも言えるのではないか。願望・恐怖、あるいは死者との出会い、そういうものが、洋の東西を問わず、人間にアプリオリに備わった特性なのだ。それも冒頭に書いたように、こどもの頃のオバケと地続きの出会いが、長じた後、もっと本格化して幽霊という存在に発展していく。そのことによって、私達の文化が豊かになる。そう考えるなら、こどもの頃の異界への垣根の低さを大いに彼らの中に育てていきたいものだと、教育に従事する私は思わずにいられない。
注:なお、日本語では「私にお金があれば、外国に行くのに」というように、非現実的な仮定の場合、現在形でも表現できる。
<初出:「ドイツに暮らす㉓」、『言論空間』、現代の理論・社会フォーラム、2026年春号。許可を得て加筆修正の上、転載。>

