筆者は、2か月に一度ほど、「カルチャーカフェ」というオンラインイベントを主宰している。「講師の話を聴いて、みんなでおしゃべりする会」で、もうかれこれ15年近く続いている催しだ。最初は筆者の本業である公文の教室で開催していたが、コロナ禍となり、オンラインに切り替えた。そのカルチャーカフェで、2024年5月、ドイツ在住、芥川賞受賞作家の石沢麻依さんに登場していただいた。偶然のご縁がつながってお願いしたのだが、気持ちよく引き受けてくださった。何よりも私には、石沢麻依さんの芥川賞受賞作『貝に続く場所にて』を初めて読んだ時の感動が大きかったのだ。
貝に続く場所にて
ドイツ・ゲッティンゲン大学に留学中の女性主人公を、震災後、津波で亡くなったと信じられている友人が訪ねてくるところから始まる。彼女が学んでいるヨーロッパ美術史の中に登場するアトリビュートがさまざまな形で現れ、またゲッティンゲンにある「惑星の小径」が重要な役割を果たし、震災で失われた人々と先の戦争でホロコーストにより消滅させられたユダヤ人たちとが、「記憶」というキーワードで重層的につながっていく。静謐な文体で、その中に、主人公のある種の罪悪感や悲しみが張り巡らされる。そして最後にそれが、美的な広がりをもって、突き抜け浄化されていく。
タイトルの『貝に続く場所にて』の貝とは帆立貝で、聖ヤコブの道の巡礼を意味し、このシンボルは、ルート途上の教会や街角などに立てられている。ヨーロッパでも日本でも人はさまざまな理由から、巡礼に発つ。だが、そこにもかつて巡礼をへめぐり歩いた人々の記憶と思いが重なっている。
私は、石沢さんには、記憶をめぐる主題で、この小説を書いた背景や、ただいま研究中のルネサンス美術と小説執筆の関わりについて、ぜひお話を聴いてみたいと思った。というのも、ドイツに暮らしていると、さまざまな芸術のつながりを認識することが多く、文学、美術、音楽の間の垣根の低さを痛感するからだ。結局、講演タイトルは、「記憶の織物を紡ぐ言葉、そして絵画的イメージ」と石沢さんがご自分でつけた。彼女の視点から、記憶や時間、距離、不在などについて、ドイツという異郷でのそれらについての経験と照らし合わせながら、お話は進んだ。
合間には当地の美術作品から得たインスピレーションも交えて、この国で言葉で表現するという行為についても言及された。イギリス・シェフィールド大学の日本文学講師、植松のぞみさんには「ヨーロッパにおける日本文学の受容」という観点から講演のサポートもしていただいた。
オランダの風景画と浮世絵
ドイツそしてヨーロッパの街には、数多くの歴史の痕跡が目に見える形で残っている。それは石造りの建築物のためでもあるし、地震や自然災害が日本より少なかったことにもよるし、あるいは人々が意識的にその歴史を記憶にとどめおきたくて残したものもある。
どんな町でも、その中心部にある教会は、人々の生活の精神的な支えであって、焼失したり、破壊されたりしても、人々が再建に努力してきた。教会はその建物ばかりでない。中に入ると、たくさんの絵画や像が置かれ、ステンドグラスを通して降り注ぐ柔らかい光が人々に届き、ミサや礼拝の折には、長く伝わる讃美歌が歌われ、オルガン演奏が鳴り響く。この存在自体が、一つの大きな歴史遺産である。
街を歩くと、1790年とか、驚くべきことに1600年とか外壁に記した家を見かけることがある。この家は、フランス革命の頃、建ったのだとか、日本だったら関ヶ原の戦いの頃だとか、その時から今に至るまでずっとこの地で立っていたということに感慨を覚えることも多い。
また、ドイツには「つまずきの石」というのがある。主として都市部の路上に、10㎝角の真鍮製のプレートがはめてあり、そこに住んでいて、かつホロコーストの犠牲となった人々の生没年と、ナチスによって殺害された事実が具体的に記されている。「つまずき」というのは、人々がこの上を歩くとき、つまずく、そのことによって、この歴史的事実を想起できるようにという目的を表す。
これは、1992年に一人のドイツ人芸術家が始めたアート作品が発端だが、今ではヨーロッパ全体に10万個も設置されているという。たしかに歩道を歩いていて、ふと足元に目をやり、そこに文字が見えると、これは何だろうと思わず読んでしまう。まさにその同じ場所に住んでいて、ここから強制収容所送りとなった人の人生にしばし思いを馳せる。隔てられた時間が目前を一瞬のうちに駆け抜け、自分に連なる歴史と今ここにある私とのつながりを見せつける。
ここから強制収容所送りとなった人の人生にしばし思いを馳せる。隔てられた時間が目前を一瞬のうちに駆け抜け、自分に連なる歴史と今ここにある私とのつながりを見せつける。
日本で、私たちは歴史の記憶に遡る経験が日常生活の中にあるだろうか。ヨーロッパの美術館を訪ねると、必ずどこでも、一枚や二枚は17世紀に特徴的だったオランダの風景画が飾られている。これを見るたびに、いつもつくづくと思う。何とヨーロッパは、その歴史的一体性を保ち続けていることか。そしてまた、私たち非西洋人がいかに多くのものを失ってきたか。
やや時代は下るが、風景画といえばわが国では、広重の浮世絵が有名である。たとえば『東海道五十三次』に描かれているもの、着物を着てわらじをはいて足早に通るちょんまげの旅人、裸の飛脚、船に棹さす船頭、驟雨(しゅうう)の中に立つわらぶき屋根の家、そんなものは、今の世の中、日本のどこを探したってお目にかからない。
一方、オランダの風景画に描かれている人々の生活の様子はどうだろう。家の景観、着ている洋服、牛や馬がのんびり草を食む様子、はるかに広がる麦畑やポプラの木立、車の存在がないことを除けば、現在、私たちがこの地にあって知っている風景そのものである。この差に、日本人の私は愕然とする。私たちにとって近代化は西洋化にほかならず、歴史の記憶はたかだか100年ほどの間にすっかり失われてしまった。
無念を忘れない
先日、何の予備知識もないまま、定期演奏会に行っているニーダーライン交響のコンサートへ行ったのだが、席につきプログラムを読んでいて、ハッとした。最初の曲の作者Viktor Ullmannは「1898年チェコ生まれ、1944年アウシュヴィッツでおそらくガス殺されたと思われる」、次の曲の作者Oskar Böhmは「1870年ポチャッペル(ドレスデン近郊)生まれ、1938年スターリニズムの犠牲となり1938年銃殺」とあったからだ。
苛酷な運命に遭った作曲者たちの生み出した曲が演奏される時、彼らの存在や思いもまた何十年の時を隔ててよみがえる。忘却への抵抗をこんな形で表現しようとしたオーケストラの意志がくみとられ、そこにドイツという国全体に貫いている歴史への態度、「想起する文化」が感じられる。
普通に音楽を聴くだけでなく、その日は記憶や場所、時間などということにあらためて思いをめぐらせた。というのも、それはたまたま、数日後に石沢麻依さんに、カルチャーカフェでお話を聴く予定だったから。冒頭に挙げた彼女の『貝に続く場所にて』の重要なモティーフが、音楽を通して語りかけてくる。石沢作品にみられる、ドイツ在住者というところから来る感性と視点。形式は違えど、その日の音楽と大いに通ずるものがあった。
休憩の後は、ショスタコーヴィッチの交響曲「1917年」。重い重いコンサートだったが、きっとこれは、ドイツでなければ経験できないだろう。彼らの無念を私たちは忘れないという強烈なメッセージ、そしてそれと同時にその歴史を繰り返さないという意志である。しかし、それが単にプロパガンダで終わらず、芸術として昇華されているところが素晴らしい。まさにそれゆえに、私たちの心をゆさぶる。
人々の無念。それはしかし、決して歴史上の事件には限らない。私には、ニューヨーク、マンハッタンのハーレムで暮らす息子がいる。先日、彼からこんなショッキングなメッセージが入った。少々長いが原文のまま引用する。
我々が住んでいる家から10メートルほど先にヘアサロンがある。そこは20代なかばの時にドミニカ共和国から移民してきた女性が、長年店を経営、切り盛りしてきたんだ。明るくて、すごい親切な性格で、お客さんからとても好かれた店なんだ。2週間前、彼女は精神疾患を病んでいる長男(22歳)によって、北ハーレムにある川の土手から突き落とされて、下まで転げ落ちた後も、息子に棒と小岩で殴打し続けられて、殺害されたんだ。あいにく、人気がない場所で、お昼過ぎではあったけど、その日は川の近くに人がいなかった。毎日のようにそのヘアサロンは通り過ぎていたし、その数日前、道端で彼女にすれ違って挨拶したので、最初ニュースを聞いた時はびっくりした、というか信じられなかった。歳は僕より2つ3つ上程度で、まだ健康で若かったので余計突然亡くなったというのが、現実味がなかった。いつも店の前でたむろしている連中も全く同じ反応だった。信じられないと。警察の検死等が終わって、今日お葬式だったんだ。
そして、今朝、近所の教会で礼拝が終わった後、棺を乗せた車がヘアサロンの前に止まって、お店の前に棺を置いて家族や友人、親しくしていた人や従業員等を交えて、お店との「最後のお別れ」をしたんだ。いよいよ棺を運ぶ車が、正真正銘、お店を後にする姿を見るのは辛かった。このあと遺体は他の親族や家族がいるサントドミンゴに戻るらしい。息子は逮捕されて拘置所にいるけど、母はどこにいる、今すぐ母に会いたいと言っているらしい。彼が探し求めている母は44歳で生を終え、棺でまた故郷に戻ることになる。彼女は責任感が強く、自分の子供たちを深く愛して、そのためにお店の経営、切り盛りしていただけに、ほんとにやるせない…
自分が直接見ていないところで、よく知っている人が殺害されたり、突然死した場合、事実としては理解できても、もっと原始的な深い部分、感覚では「理解」できないんだと思う。感覚としては、いつまでも、まだ生きていてひょっこりと現れるんじゃないかと感じてしまう。今日の儀式 (棺がいつもの近所、いつもの店に来て、そして全員がそのお馴染みの場所で棺に触ってお別れした後に、皆の前でその場所を後にする一連の流れ)を行うことで、ある意味、みんなの前で死を物理的に再現して、その場にいた人々は、感覚として、あぁ、本当に亡くなったんだ、本当にこの近所からいなくなったんだと感じられる。辛いけど、大事なプロセスなんだろうね。
彼女はもう亡くなっていたけど、実際には車がいざその場を後にする瞬間、群衆がひときわ昂まり、悲鳴を上げた家族もいた。後日、数ヶ月後、数年後、振り返って悲しみの感情が沸いたとき、その時、その感情はお店の前で車が発車するシーンにリンクする。目の前での死の再現がなかった場合、物理的にどこにもリンクできず、モヤモヤしたまま、内包している感情を具体的に解放出来ない。その意味で、今日の儀式はとても大事だったと思う…
この儀式こそ、実は芸術の役割ではないか。時間の中に堆積している記憶を丁寧に取り出し、あらためて埋葬する。そのことによって、無念の死者との間の距離を埋めていく。歴史の闇に眠っている膨大な人々の思いを、残念ながら私たちは全員掘り起こすことはできない。でも、象徴的に一人、二人取り上げて目の前にかざす行為は、他の人々の思いを代弁することでもある。つまずきの石は、ホロコーストの犠牲となった600万人の数には満たない。けれど、その行為に参画することは、今ここに生きる私たちの責務であり、同時に自分自身の解放である。
歴史修正主義の愚かさ
ドイツにいて、街の風景の中に組み込まれた人々の歴史を見ながら毎日過ごしていると、日本から伝わってくる、近頃激しさを増す歴史の書き替えへの野心や所業が、どれほど愚かであるか見えてくる。
2024年2月に起きた群馬の森の朝鮮人追悼碑の破壊・撤去など、その最たる例だ。いわば、因縁をつけて、負の歴史を人々の目から見えないようにするという、共感や倫理のひとかけらもない行政。たとえその土地がまっさらになったとて、時間の闇の中に堆積しているものを奪い去ることはできないということが、なぜ理解できないのだろうか。ここで私は先に挙げた、オランダの風景画と浮世絵の対比を思い出す。
何も残っていないことに、私たち日本人はなれっこになっているのではないか。実は、冒頭に書いたカルチャーカフェで、昨年聴いた講演に衝撃を受けた。青木亮人愛媛大学教授は日本の詩歌の伝統についての講義の中で、「日本文化は季節のうつろいを重視する傾向があり、巡りゆく季節の中、人々は人生の様々な出来事を自然現象のように受け入れ、まるで四季のように現れては消えゆくはかないものと捉えるという特徴がうかがえる」というのだ。災害も戦争も、ただ移り変わりのようにとらえ、それが過ぎ去るのを受動的に待つ。そこでは、責任も罪も問われない。このような心的態度は、たしかに為政者にとって大変都合の良いものだろう。こうして、私たちはあの戦争を自然災害のように忘れ、歴史を改ざんする動きも加速する。
だが、歴史は目に見えなくなれば、本当に失われてしまうと日本人は思っているのだろうか。ここでもう一つ、日本の精神風土となっている仏教の教えを思い出したい。仏教の根本は、『縁起』である。一つ一つの事柄はつながっていて、何一つ独立して存在するものはない。この教えに立ち返れば、たとえ目前から消え去っても、その事実は縁起のネットワークの中で永遠に把持される。
大乗仏教の中の唯識(ゆいしき)の教えは、個人にとってのあらゆる存在は、五感と意識から成り立ち、その下に二層の無意識があると考える。中でも最下層の阿頼耶識(あらやしき)は、すべての記憶をとどめておく大きな種のようなものと比定(ひてい)される。これは縁起論の一形態でもあり、すべてが事象のネットワークの中で把持(はじ)されるという意味である。その意味でいえば、形として歴史を遺しているヨーロッパより、日本の精神風土は記憶の堆積についてはさらにラディカルなのかもしれない。
いずれにせよ、私たち日本人が芸術に触れるとき、その堆積を思い起こし、自らの解放と責任を想起してほしいものだと、さまざまな記憶が交錯するこのドイツという土地にいて、思わずにはいられない。
<初出:「ドイツに暮らす⑰」、『言論空間』、現代の理論・社会フォーラム、2024年冬号。許可を得て転載。>