障がい者である前に
旧優生保護法の下、強制不妊手術を受けさせられた何万人もの障害者や病者の実態が明るみに出され始めた。戦時下のナチスや戦中の日本の悪夢の話ではない。「不良な子孫は予防すべき」との優生思想が、日本では、なんと戦後の新憲法の下で改訂され、1996年までまかり通っていたのだ。「日本っていいね」と普通に育ってきていたその国で、これほど多くの人々が、良識あるはずの大人たちの手で、粛々と強制不妊手術に追いやられてきたという事実に驚愕し、無知によって加担してしまったことを恥じずにはいられない。そういえば、日本にいた頃、産婦人科の看板には、「優生保護法指定医」などと誇らしげに書かれていた記憶がよみがえる。筆者はそれを、「合法的に中絶手術をする」と解釈していた。だが、その意味を、なぜもっと疑わなかったのだろう。
その後20年以上たった今も、優生思想の片りんは日本社会の根底にくすぶり続けているのではないかと感じる事件が起きている。2016年7月、相模原の施設で起きた障害者殺傷事件。その容疑者による恐ろしい発言は、公には批判されても、ネット上では支持者は少なくない。新型の出生前診断(血液による染色体解析)は、二十万円と高額なのに希望者が驚くほど多く、懸念があれば、中絶に躊躇はないらしい。必要とされない不良な命と決めるのは誰なのだろう。
筆者はベルギーに住んで、30年近くになる。その間、転勤などでベルギーにやってくることになった日本人や日系家族のために、障害や病気を持つお子さんの学校探しを数多く手伝ってきた。筆者自身が養子に迎えた子どもが重度心身障害を負っていたことから、この国の療育の仕組み、養護学校や施設などをていねいに調べ、訪ね歩いてきた知見があるので、少しでも誰かを助けられると思ったからだ。
現地の人間でも、障害や病気を抱える子どもたちのために、最善の環境を見つけ出すのは容易なことではない。まして、突然やってきた右も左もわからない赴任者が途方に暮れるのは無理もない。つい先日も、極めて希な染色体異常から心身の発達遅滞を抱える4歳児のために動いた。この国の障害児の療育に関する仕組みの概略をご両親に説明し、専門の医療機関に予約を入れ、特殊教育を必要とするとの確定診断を取得するようアドバイスし、いくつかの養護学校をお薦めした。
だが、診察予約はどこも数ヵ月先まで一杯で、養護学校は電話では、「ウェイティングリストが長いので、とても受け入れられない」と断られたという。無理もない。現地の家族なら、子どもに何かあると感じた1歳児検診頃には、予約を入れてしまうからだ。
そこでくじけてしまうと、この社会の暖かい懐に入りそびれてしまう…。「そこをなんとか」「会うだけでよいので」と情熱をもって食い下がると、道が開かれ始める。「ベルギーでは、どんな子も、学校に行って、勉強したり、お友達と遊んだりする権利があるのよ。外国人だって、障害児だってね。XX君は、『障害児』である前に『子ども』だもんね」
ある学校で、校長の代理として現れた若い先生が対応し、優しい声でXX君にこう語りかけながら、入学希望リストに名前を書き込んでくれた。お父さんがスクールバスや学費のことを尋ねると、こんな答えが返って来た。「ベルギーでは、どんな子にも学校は無償。ここでなら理学療法士や言語療法士などセラピーも受けられるし、スクールバスがお宅まで行きますよ。でも、夕方にはご家族がおうちに帰ってきて、大切に迎えてあげてね」
まだ、この学校に入れると決まったわけではない。でも、お母さんが帰りがけにぽつりと言った。「ベルギーでXXのために会ってくれた人たちは、なぜか皆とても暖かい」
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命の選別は許されるのか
もうずいぶん前のこと、受精卵の着床前診断を行うブリュッセル自由大学大学病院の専門医に話を聞いたことがある。日本人とドイツ人のご夫婦の相談に、同行したのがきっかけだった
受精卵からいくつかの細胞を採取して、その染色体や遺伝子を解析すれば、重篤な疾患や障害を持つ受精卵はわかるので、それらは廃棄し、健全な受精卵だけを選び出して母体に着床させ、健常児を出産する確率を高めることができる。受精卵段階での命の選別だ。今日では、すでに十分可能な技術だが、しかし、可能だからといって誰にでも許されるのか。どういう異常なら選別が行われてよいのか――技術ではなく、倫理の課題。簡単な答えはない。
同じ遺伝子解析技術を用いれば、性別の産み分けはもちろんのこと、「青い目」「金髪」「身長170センチ以上」「IQ130以上」…こんな選り好みも技術的には可能だ。このような技術を野放しにし、市場原理に委ね、お金のある人だけが、誰もが望むような特性を持つ「良質」な子どもを選り好みもできることに、ベルギー社会は断固として歯止めをかけようとしている。今の人知を尽くして、限定された重篤な遺伝子異常のみに許されるよう、厳格な法と制度を作っているのだ。そして、適法とされたごくわずかなケースに対しては、その費用は全額保険適用で本人負担はない。
前述のご夫婦の場合、第一子は極めて希で重篤な遺伝子異常で生まれ、苦痛に耐えながら、一度も病院の外に出ることなく短い生涯を終えた。調べてみると、両親とも遺伝子異常があり、再び子どもを授かっても、その子が同じ重篤疾患を持つ確率が25%以上あると診断された。このため、倫理的に許される極めて希なケースと判断されたのだ。問診によれば、奥様は広島出身、ドイツ国籍のご主人は、ウクライナ出身でチェルノブイリ事故で被ばくしていることもわかった。
ベルギーでは、「命の選別」につながるケースでは、医師だけでなく、社会学者や宗教家などの幅広い専門家が構成する医療倫理委員会が慎重に審査してから判断する。お会いした医師はこう締めくくった。
「どの命が不良だから抹殺してよいかは実際誰にもわからない。わからないから蓋をして、『パンドラの箱』とするのではなく、乱用・悪用されない制度を作り、倫理的に許される場合を厳しく限定する。許されるケースなら、お金持ちも、そうでない人も、この国の中で、平等に受けられてこそ、市民のための医療と呼べるのです。」
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一人ひとりを大切に
生まれた子どもに何らかの障害があることが分かり始めた時、どんな母親も「杞憂であってほしい」「軽度であってほしい」と自分に言い聞かせようとするものだ。定型の遺伝子異常や明確な身体障害でなければ、親は「甘えているだけだ」「多少遅れているだけだ」などと思いたく、子どもに障害があるという事実を受け入れられるようになるのだけでも大変な過程だ。
また、できれば養護学校ではなく、普通学校に入れたいと願うものだ。いわゆる『統合(Integration)』がよいか、『分離(Segregation)』がよいかというクラシックな議論になる。最近では『統合』ではなく、『包摂(Inclusion)』が理想的という考え方が強くなっている。養護学校ではなく普通学校の方が障害児にとっても良い刺激になるし、健常児にも多様な仲間と共に生きることが体得できて望ましいという考え方は、日本でも広まっているようだ。
だが、普通学級で、千差万別な障害や病気を持った子供を受け入れ、学力優先主義の学級を運営できる手腕を持つ先生はそういない。そこで、校内に設けた特別支援クラスに障害や病気を持つ生徒を入れ、補助教員やアシスタント、保護者を動員し、形式的には少なくとも普通学校に通っている体裁をとるやり方が日本でもベルギーでもよく見かけられる。
ベルギーでも伝統的には、『分離』の方が、障害のタイプによってより適切な指導ができるという考えに基づいて制度設計がなされてきたが、最近は、『統合』や『包摂』推進を受けて、普通学校はどんな障害児や病児も拒否することができないという法律ができた。だが、車いすためのトイレやエレベータなどの設備の有無や専門の教員配置などの問題もある。普通の先生たちが、それぞれ固有の障害を理解し、様々な技術を駆使して学習力を最大に引き延ばせる方法を熟知しているとは考えにくい。
障害児教育の専門家の一人は「必ずしも『包摂』が最善とは言えません。どんな学校や療育がその子に適しているかは十人十色。一人ひとりが大切な子どもなのだから」と諭すように語った。どんな社会にも、様々な障害を持つ子どもたちにとって、完璧な制度設計を実現することは、困難を極めることだろう。それでも、国策や医師や親が、「不要な命」を一義的に決めることはできないのだということだけは、毅然として明確にしておかねばなるまい。
日本人の筆者がベトナムから養子に迎えた息子は重度心身障害児で、破産寸前のベルギーの福祉にさんざんお世話になった。申し訳ない気持ちに押しつぶされそうになる筆者に、現場の担当者はいつもこんな風に言ってくれた。
「お母さん、大事なお子さんを託してくれてありがとう。この子が私達を必要とする以上に、私達がこの子を必要としているのですよ」と。
(月刊ひろばユニオン2018年4月号より許可を得て、加筆・修正後転載)
トップ写真:ベルギーの障がい者への福祉を受けて暖かく命を全うした息子 (c)KURITA, Michiko
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