ピアニストとして、女性として、妻として、母として、短く濃く生きた友人、岡田佳子さんが、2022年6月、帰天した。日本の旧友である音楽教育家・北村智恵さん(ムジカ工房)が会報誌に書かれた追悼エッセイ「各駅停車の音楽人101 見事な人生」をご本人の了解を得て掲載し、一年を迎えた今、改めて、ありし日の彼女を偲びたい。
~~~
その少女は15歳だった。
高松で生まれ、父親の転勤で大阪に居るとき、習っていたピアノが大好きになり、将来その道に進むつもりで練習に励んでいた。当時、新聞記者だった父親のコネクションで、ある著名なピアニストに師事することになり、一家は東京へ引越した。そのピアニストがその少女のレッスンを引き受ける条件として、そのピアニストと「同じマンションに住むこと」を求められたからであった。
中学三年生という年齢で、ピアノのために、大阪から一家を挙げて、東京の高級マンションを買ってまで引越すなんて、と、人は思うかも知れない。だがその少女の夢と、それを支える家族にとっては、そのピアニストに師事できるだけでも夢が半分叶ったくらいの価値を持っている(と思った)ほど、おそらく当時もその後もその先生は著名なピアニストであった。そのピアニストに憧れてピアニストになる夢を持った女の子は何万人といるかも知れない。
だが、東京に移り住み、実際にレッスンを受けるようになって暫く経った時、少女は、なぜピアニストが自分と同じマンションに住むことを条件としたかを思い知らされた。
ピアノのレッスンというものは普通、週に一回、決まった曜日に通うというのが一般的である。生徒は与えられた課題を一週間かけて毎日精一杯練習し、次のレッスンに間に合うよう計画を立てて何曲も仕上げて次のレッスンに臨む。スイミングやバレエのようにそこへ行ってそこで練習するのではなく、ピアノのレッスンを受けるためには、家で一週間かけて弾けるようにしておかなければならない。レッスンが成立するための、ピアノという習い事の宿命のようなもので、そのことは絶対である。それは趣味で習うとか専門の道に進むとかいったことで異なるのではなく、ピアノを習うということ自体がそういう特殊性を持っている。世界の有名なコンクールに入賞し、クラシック音楽とは無縁の人達にまでその名を知られているほど有名なピアニスト―その地位を築くまで、高度で専門的なレッスンを受けてきたはずのそのピアニストが、そういうことを知らない、考えられないはずがないにもかかわらず、15歳のその少女は、レッスンを受けた二日後の夜10時過ぎに「今すぐレッスンに来なさい。来週私はコンクールの審査で忙しいから」とか、酷いときには翌日の夜呼び出されたこともあったという。そのピアニストの都合で月に4回というレッスンを回数合わせ?のために、同じ週に2度、3度と夜遅く突然呼び出し、課題がこなせていなかったりそのピアニストの思うように弾けなかったことで、人格を全否定し感情的になって雑言を浴びせかけ、罵り、少女に「自分は生きている価値もない」と思わせた。
そのようなレッスンが何度も続いたある日、少女は、本当にこの苦悩から逃れたいと思い、いつ急に呼び出されてこんな目に遭うかわからないという不安にも苛まれ、両親の期待に添えそうにない自分を責めて、この状況から逃れるには「死ぬ」しかないと思うに至り、マンションの屋上から飛び降りる決心をした。
エレベーターで屋上に上がり、柵を乗りこえるために身を乗り出して下を見たとき、真下の大きな道路の向こう側の舗道に、買い物かごを持った母親に手を繋がれた幼い子どもがスキップをしている、楽しそうな親子の姿が見えたという。そして行き交うように、犬を連れて散歩している男の人が犬の歩調に合わせて、歩いたり立ち止まったりしている姿が目に入ったという。そのとき少女が急に思い立ったのは、「みんな楽しそう…。なのに、なんで私は、あんな嫌いな人間、大・大・大っ嫌いな奴のために死ななければならないの?」「そうだ、死ぬ気になれば何だってできる。あの先生から逃れるために死のうと思ったなんてバッカみたい。あんな奴の犠牲になるなんてよけいに腹が立つ!大好きなピアノのことで大っ嫌いな奴のために死んでたまるか!」―咄嗟にそう思ったという。
究極の状況の中で、そう考え直した少女は健気でもあり、賢明な選択をしたと思う。彼女の命を救ったのは、自らの「尊厳」だったに違いない。
少女は本気で「家出」を考えた。「死んだつもり」で考えたから、それはとても考え深く緻密な計画だった。
折しもその頃、テレビの「モーニング・ショー」という朝のワイド番組のはしりが始まった頃で、その番組の中で「探し人」のコーナーがあり、行方不明になった人や、家出した少年少女を、家族や親が、手掛かりとなる写真をアップで公表したり、直接「○○ちゃん、どこにいるの? 叱らないから元気でいたら連絡して!」と泣き声で訴えたり、心当たりのある人に、連絡を懇願するような場面が、よくテレビ画面で見受けられた時代だった。夏休みの午前中、テレビでそういうコーナーを見たことのあるその少女は、日本中どこへ逃げ隠れしても、きっとその番組を通して見つけ出され、家に連れ戻されると考え、外国へ家出することを考えた。その一年前の夏休みに、家族三人でパリへ旅行したことがあるだけで、少女にとって知っている外国というのはパリだけだったが、それだけで、パリへ家出することを考えたのだった。パスポートは持っていたが、渡航費用がないので、いつも出入りしていた銀座のヤマハへ行って然るべき書類を貰い、父親の筆跡を真似て、私文書偽造。自分の「グランド・ピアノ」を売って、当時の引き取り価格三十万円を現金で貰ってパリ行きの航空券を買ったという。「死ぬ気」になればそんなことまでできたのだ。
そのとき少女は15歳だった。
パリに着いてから、誰にも知られていない自分の気楽さと、持ち前の賢明さで、レストランの皿洗いをはじめ、長身だったので年齢を偽り、住み込みで働けるいろんなアルバイトをしながら、レストランにあるピアノを弾いたりもし、そこに出入りしていたピアニスト達にも見出され、何とか無事で安全な生活ができたのだという。日本で心配しているであろう両親にも連絡した。そこまでやってのけた一人娘の行動に、理解を示さざるを得なかった両親からの援助も始まり、少女は、パリやロンドンで次つぎと一流のピアニストに師事し、どんどん評価も上がり、20代前半でモナコ王立音楽院でピアノを教える地位も得た。
その頃だったと思う。一時帰国した折、縁あって彼女は母親と二人で私の家にやってきた。故郷大阪で初めてリサイタルを開くことになったので集客に協力してほしいという内容の依頼と相談だった。15歳からの、半生にも満たない波瀾万丈の数年間の話を聞いて、私は心から感動した。「ピアノが好き」の一念で、「「死ぬ気」で生きた彼女の凄絶な青春は、その後の彼女の演奏が支えられることによって報われるべきと、私は思った。そしてそれは「有名ピアニスト」の名の下に、一人の(あるいは何人かの?)生徒の人格を傷つけ青春を踏みにじった某女史に対する非難をこめた支援のつもりでもあった。ひょっとしたら、そんなことや同じ例はこの世間でよくあることなのかも知れないと思った。ただただ有名ピアニストであることや、音大・芸大の教授という権威の下では、自分にとって都合の悪い生徒の才能の芽を潰してしまうこと等、ピアノに向いていないという理由にして切り捨ててしまえる簡単なことなのだ。
以来40年近く、私は彼女の日本における演奏活動をずっと支援し続けてきた。それは「権威主義」に対する抵抗でもあったが、それ以上に、彼女の誠実さや正直でまっすぐな心を大切に思っていたからである。
彼女がロンドンに住んでいた頃、ワルシャワ・フィルとのコンチェルトの仕事でポーランドへ行った時のこと、舞台上で、演奏中、指揮者を見たその先、主席フルーティストとふと視線があったという。その瞬間、何と、「私この人と結婚する!」と思ったのだという。信じられない話だが、フルートを吹いていたその青年と、もちろん初対面でありながら、目が合ったとたん、「この人と結婚するだろう」と「直感」したのだそうだ。ポーランド人の彼は若くして主席フルーティストを務めていたくらい演奏も一流だったが、彼女にとってはそんな前知識もなく、ましてやポーランド人でありながら互いにフランス語で会話できるなどとは全く知らなかったというのに、直感的に「運命を感じた」と彼女は後に、私に何度も話した。そしてその直感どおり、彼女は彼と結婚した。まさに電撃的直観による結婚だったが、大阪在住のご両親は「あんな普通じゃない娘を貰って下さる奇特な男性は二度とない、有難い人」と大喜びで、私達他人が「グレゴリー!」と呼び捨てにしているのに御両親はいつも「グレゴリーさん!」とさん付けで呼んでいた。日本に来るときは我が家にも二人で何度か遊びに来たり、コンサート前には私の家で練習していた二人だったが、「高野豆腐が大好きな変なポーランド人」を、同居の年老いた私の母もとても気に入っていた。
私がショパンの研究でポーランドへ行くときはいつもいろいろと気配りしてくれて、ホテルを予約せずに何週間も自分の家に泊めてくれたり、音楽雑誌の取材でショパン・コンクールに行くときは、特別なプレス席を取ってくれていたり、民主化されたばかりの治安の悪い時には、私の移動の見守りで付き合ってくれたり、ジプシーに囲まれて脅されているのを助けてくれたこともある。
そんな優しい人との国際結婚で彼女は二児の母親になった。長男がまだ一人っ子の頃、私が訪れたとき、3歳くらいだったと思うが、母親とは日本語で話し、父親とはポーランド語で話し、夫婦同士の会話はフランス語という、家族全員がバイリンガルの家庭だったことを、ほほえましく思った。そのように感想を伝えると、彼女が言った。
「智惠さん、智惠さんのような人ばっかりだったら、私、この子を日本で育ててもいいなと思うくらいよ。でも、日本じゃ、まだまだ混血児とか言って、特別な目で見たり、差別もあるでしょ?日本人に会ったら殆どの人が この子、ハーフ?って訊くのね。私、そんなとき、絶対「いいえ、ポーランド人と日本人のダブルです!」って言い返して答えることにしてるの。だってそうでしょ。私、自分の子どもには、両方の国のいいところを教えたいし、文化の違いも両方知っていることを誇りに思ってほしいし、ハーフなんて、みみっちい発想だと思わない?」
本当にそのとおりだと思った。「ダブル」なる、息子への愛から生まれた彼女のその言葉に、私は、感動した。ずっとピアノを続け、定期的に、ポーランドと日本でリサイタルや夫とのデュオ・コンサートを開催し続けている彼女のことを、本当に偉いなぁ、と思っていたので、そのように言うと、彼女は、「もちろん、ピアノは一生ずっと続けたいと思っているし、演奏活動は生活の基本にしているけど、子どもを生んで育てるという、普通の人がごく普通にやってることは当たり前のこととして私もやってみたかったのよ。そうしてでも、工夫して練習を続けたり、勉強し続けてこそ、自分の音楽が深まって行くとか、本ものになって行くんじゃないかなって、思ってるの。」―彼女はそう語り、またそのようにその後も淡々と毎日家事をこなし、愛する息子のために日本語の絵本を読み、子供が寝ている間にピアノの練習をして、ソロや、夫とのデュオ、仲間との室内楽等、コンサート活動も続けながら、何種類ものCDを収録、リリースしている。
このように書くと、まるで彼女がスーパー・レディのようで、ピアノに関しても、家庭生活に関しても、その才能や環境に恵まれ、青春時代は波瀾万丈だったにせよ、結婚後はきっと何事もなく、ある意味では穏やかで恙無く暮らしているように思われるかも知れないが、実は2人目の子どもが生まれて暫く経ったとき、その子が重度の自閉症であることが判明した。
その子の子育てと教育を少しでも充実させるために、一家は住み慣れたワルシャワを離れてベルギーのブリュッセルへ引越した。ただただ2人目のその息子が少しでも行き届いた教育を受け、同様に少しでも安心な社会福祉の中でその子が少しでも生き易くなることを願って、いろいろと勉強し、考え、ベルギーに引越したと、彼女は私に話してくれた。私がパリに行ったついでにブリュッセルの彼女の家を訪れたとき、その自閉症の子は二十歳を過ぎていたと思うが、私が行く数日前に、何か気に入らない落ち着かないことがあったらしく、「体が大きくて力も強いので、2階の窓から重たい机を持ち上げて外へ放り投げたりして大変だったのよ」と彼女はその窓を指した。「あら大変!庭で誰も怪我しなかった?」と訊いた私に、彼女は本当に優しい顔で私に向かって言った。「それは大丈夫だったから良かったの。私が悪いのよ。自分の思いを言葉でちゃんと伝えられない彼のそのときの気持ちを充分に解ってあげられてなかったからよ。私が悪かったんだと思う。あの子は人を困らせようとしてそんなことをしたんじゃないと思うから。どう伝えたらいいのかわからなくてあんな重たい物を持ち上げて窓の外へ放り投げたのよ、きっと。一時的にでもそんな孤独な思いをさせて、かわいそうなことしちゃった。何年、母親やってんのよネ、私。」と、それはそれは、優しい目をして、私に向かって微笑んだ。その言葉は彼女の魂からの真実の重みを持って私の心に届いた。
その子は少しでも環境が変わるとパニックを起こすので、飛行機に乗ることができない。自分の家と、通い馴れた施設に停まることしかできないので家族4人で一緒に出掛けることなど一切できない。
あるとき、ウイーン国立音大でクラシック・ギターを学んだ長男(兄)の初めてのリサイタルが大阪のフェニックス・ホールで開催された。車椅子生活ながら、一人暮らしをしている祖父(母親の父)が生きているうちに喜ばせたいという思いを家族で実現させようとしていたのだろう。私も多くの人に紹介しチケットをたくさん買ってもらった。そのときのこと。リハーサル前にいろんな打ち合わせがあり、家族3人と私が一緒に集まることになっていたので、彼女が関西空港に着いて電話をしてきたとき、「何時にどこで会うことにする?」と私が聞くと、「ヤンとパパが大阪に着き次第、もう一度電話するね」と言ったので、「えッ!同じ飛行機じゃなかったの?」と訊くと、「だって智惠さん、3人が同じ飛行機に乗って、万が一、その飛行機が落ちたらヒデ君が世界中でたった一人の、本当にひとりぼっちになってしまうでしょう?だから私達は同じ所へ出かけるときでも絶対同じ飛行機に乗らないことにしてるのヨ。それで時間や料金にロスが生じても、絶対それぞれ一機ずつ違う飛行機に乗って三人バラバラに移動することにしてるから」と、彼女はさりげなく言った。
私は彼女が、障がいを持って生まれた息子を、心から、本当に心から、どんなに深く愛しているのか思い知らされ、胸に熱いものがこみ上げ、涙があふれた。
そんな思いの中で生活しながらも、彼女はずっと、ピアノを続けてきたのである。
彼女の母親は、彼女が結婚してワルシャワにいるとき、大阪で胃癌のために若くして亡くなった。そのため父親が長く一人暮らしをしていたので、何かのときには、私ができることは何でもするからと約束していた。私も一人っ子で頼る兄弟姉妹、甥、姪もいないので、彼女の気持ちがよく解る。ところが、その父親も数年前に他界。親族のない彼女はお葬式や初七日のときに私達夫婦に来てほしいと言い、私達が法事に参列した。そして大阪市内の大きなマンションの一室を売却し、明け渡す前日、その父親が愛用していた形見の家具を私に貰ってほしいと電話してきたので引き取りに行った。両親の遺骨を無縁墓地に納め、永代供養を依頼して、彼女はブリュッセルへ帰って行った。その後、手紙のやりとりやメール、ファックスのやりとりはあっても会えないまま数年経ってしまった。
昨年(2021年)8月、彼女からメールが届いた。「智惠さんお元気ですか?私は元気です。日本もコロナが蔓延しているようですが気をつけて下さいね。ワクチン接種何回目ですか?私もグレゴリーも2回目を終えたところ、ヤンはウイーンで1回受けたところです。くれぐれも気をつけてお二人とも、どうかお元気で。」と書かれていた。そのメールの返信後、不本意にも、私は自分の仕事や通院、その他で時間的な余裕がなく、お互いに御無沙汰してしまっていた。
そのメールから一年も経たない今年の夏、彼女の訃報が届いた。昨秋、食道癌と診断され、化学療法や放射線治療を繰り返すも肝臓に転移し、11日間ホスピスにいて、2022年6月6日、グレゴリーのみに看取られて天に召されて行ったという。彼女があんなに愛した二人の息子もコロナ禍ではあったが、5月末に病院で会えたということを知り、私も少しはホッとした。
だが、重度の自閉症の彼に「死」を理解することができるのか、きっと彼女はそのことだけが心残りであったに違いない。彼女の「死」を知ったとき、私自身もそのことが一番心配で、また心が痛んだ。今となっては、残された3人の家族が、彼女の死を乗り越え、少しでも穏やかに、彼女が望んだ「ありのままを受け入れ愛し合える家族」であり続けることを、祈ることしか私にはできない。
「ハーフ?いえダブルです!」
「3人で一緒に同じ飛行機には乗らない」
何と愛情深い、心の美しい、上等の魂を持った人だったことだろう。
1961年10月5日、香川県高松市生まれ。日本流に言うと「中学中退」で単身パリへ「家出」。
―そのとき彼女は十五歳だった。
2022年6月6日、ベルギー・ブリュッセルにて永眠。
ピアノを愛し、人を愛し、本当の自分を生き切った彼女の人生のすべてを知る親友として、人にも語り、彼女がこの世に生きた「証し」とすべく、ここに記して残す。
岡田佳子―
15歳の旅立ちから最後まで、誰にも真似のできない、凄絶で、美しい、それは「見事な人生」だったことを―。
<MUSICA KOBO通信101、2022年12月発行より、北村智恵さんのご厚意にて転載>
~~~~
<寄稿者プロフィール>
北村智恵/KITAMURA Chie
音楽教育家・音楽学者。主な仕事は、ピアノ指導、楽譜の監修・校訂、作・編曲等。CDの楽曲解説やコンサートのプログラムノート・新聞・音楽雑誌への執筆等も長年に及ぶ。2018年まで相愛大学にて「ピアノ教授法」「音楽学演習」講師として二十余年、後進の指導にあたる。全国各地でピアノ指導者のための講座・公開レッスンの講師をつとめる一方、学校関係や教育セミナーの講演も多い。幼稚園での歌唱指導やリトミック指導の実践も三十数年におよび幼児音楽教育にも力を注いでいる。ピアノ曲集や書籍等、著書多数。とりわけ「ピーターラビットと学ぶはじめてのピアノ教本」全3巻(英訳付き)は、その指導上の工夫や画期的な内容が専門家の間で高く評価されている。また、「プロの常識・ピアノを教えるための全10章」(音楽之友社)はピアノ指導者の「教科書」「バイブル」と評価されている。日本ピアノ教育連盟会員。日本ショパン協会関西支部長。理事。