ジョージ・タケイの警告
2月2日、俳優のジョージ・タケイさんが、筆者の住むテキサス州ダラス市を講演に訪れた。60年代から80年代にかけて「スタートレック」シリーズのヒカル・スールー役で活躍したと言えば、思い出す人も多いかもしれない。現在79歳だが、今もさわやかで、若々しい声の持ち主だ。カリフォルニア州出身の日系二世で、長年、日系アメリカ人の地位向上や日米親睦活動に携わってきた。2005年に同性愛者であることを公表したタケイさんは、LGBTQの権利を含む人権擁護活動家でもある。
2012年には、第二次世界大戦時の日系アメリカ人強制収容を描いたミュージカル「忠誠(Allegiance)」に主演した。子供の頃、家族とともに強制収容所に送られたタケイさん自身の経験をもとにした作品である。トランプ大統領は昨年12月、Time誌のインタビューで日系アメリカ人強制収容について聞かれ、「自分だったら強制収容に反対していたかもしれないし、賛成していたかもしれない。その場にいなければ適切に答えられない質問だ」、「戦争はタフなもの。勝つにはタフさが必要。これまでの米国は負け続けてきた」と述べた。
これに対してタケイさんは、自らビデオで「私は『その場』にいました。あなたが選挙戦で訴えているような恐怖政治のせいで、不当に収容された日系人家族の困難な生活の片鱗を、快適な椅子に座って見たいならAllegianceに招待しますよ」と皮肉りながら、批判した。
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人権無視、政治のための大統領令
日系アメリカ人にとって、2月19日は「追憶の日(Day of Remembrance)」である。75年前の1942年2月19日、ルーズベルト大統領は、太平洋岸に住む日系アメリカ人を強制収容する旨の大統領令9066号に署名した。日米開戦後、タケイさん一家を含む12万人もの日系アメリカ人が、日本にルーツを持つがために「米国に脅威を与えるかもしれない」という理由で、アメリカ人でありながら強制収容されたのだ。そして2017年2月、トランプ大統領は、イスラム圏の7カ国出身者に対して、アメリカの永住権や査証を持つ人を含め、アメリカへの入国を禁止するという大統領令に署名した。過去にこの7カ国の出身者が米国内でテロ事件を起こした記録はない。しかし、今後「テロの脅威を与えるかもしれない」という理由からである。
「第二次大戦時の日系アメリカ人強制収容の歴史が、今ほど今日的な意味を帯びたことはない」と、タケイさんはダラスのラジオ局とのインタビューで強調した。
Executive Order 9066 forced the removal and incarceration of 120,000 Japanese Americans during WWII. This must never happen again. @JAMuseum pic.twitter.com/OSn6mPyL2r
— George Takei (@GeorgeTakei) 2017年2月3日
1942年の大統領令で強制収容の対象となったタケイさんは、「私たちはアメリカ市民で、戦争とは関わりがなかった。真珠湾を爆撃した日本人に見た目が似ているという理由で、容疑も裁判も法の適用もなく、大統領令一つで強制収容された」と言う。当時のカリフォルニア州検事は、後に最高裁史上で最もリベラルな主席判事と呼ばれることになるアール・ウォーレン氏だった。「当時のウォーレン州検事は、当然、強制収容が市民の人権を侵害し、合衆国憲法違反であると知っていた。しかし州知事を目指していた同氏は、社会に広がる反日感情を背景に、むしろ日本人排除を選挙運動に使った」と、タケイさんは言う。そしてこの大統領令に署名したのも、『リベラル』なはずのフランクリン・ルーズベルト大統領だったのだ。
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人々が築いたデモクラシーの危うさ
タケイさんは父親から、「私達のデモクラシーは人によって築かれた真のデモクラシーだから、人々のパワーと同じように強くもあり、弱くもある。だから真のデモクラシーを維持していくには、善良な人々がデモクラシーのプロセスに常にかかわっていかなければならない」と教えられたという。
日系アメリカ人強制収容の大統領令が出された時、タケイさんは5歳になったばかりで、一番下の妹は、1歳にもなっていなかった。二束三文で財産を売り払い、荷物をまとめる時間もそこそこに、銃をつきつけられながら集合センターに追い立てられた。集合センターは、厩舎などを転用した一時収容所だった。内陸部の荒地に、恒久的な強制収容所が建設されるまでの数ヶ月、集合センターの馬小屋がタケイさん家族の「家」となった。
その後タケイさん一家は、南部アーカンソー州の湿地に建設された強制収容所に移された。食事は食堂でとることになっていたが、雨が降ればぬかるみで歩けず、自分達で木道を作らなければならなかったという。収容所内には学校や病院、教会なども作られ、政府は日系アメリカ人らが「普通の暮らし」をしていると宣伝したが、そこは有刺鉄線で外界から遮断され、銃を持った兵士が見張塔から常に監視している場所だった。
「考えることをしない、人の話に耳を傾けない、国に損害を与えかねない人たちが公職に選ばれてしまうこともある。父が言うように、善良な人々がプロセスに関わっていかないと、デモクラシーはもろく崩れる」と、活動家としてのタケイさんは各地で訴え続けてきた。この言葉が、今ほど重要な意味を持つ時はない。
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