2025年8月末、ドイツの学校は新学期でもっとも多忙な時期。私は思い切って1週間満州に行った。長野県の飯田日中友好協会と満蒙開拓平和記念館主催の訪中団に、ハルビンで合流して、日本から来たその一行と一緒に旧満州(中国東北部)の満蒙開拓団の跡地を辿る旅に参加したのである。メンバーは、元開拓団員の当事者をはじめ、そのこども世代、中国からの帰国者2世、記念館のボランティア、満州関係の研究者、信濃毎日新聞記者などこの地域と何かしらつながりのある人たちだった。そこに私が加わった理由は、はるか昔に遡る。
泊平、ドイツ、そして満州
私と夫は、70年代の終わり頃、山梨県の南アルプス近く、泊平(とまりだいら)といういわゆる限界集落に住んでいた。そこは、満州から引揚げて来た人たちが戦後開拓で入った場所だった。標高千メートル、冬は零下15度近くまで気温が下がる。苛酷な条件だが、戻ってきた彼らの入れる土地はそのあたりしかなかったのだろう。しかし、60年代の経済成長期に、一人、また一人と山を下り、町で農業以外の仕事に従事するようになり、私たちが移り住んだ頃は、数多くの空き家と伸び放題の桑の木だけが残されていた。

そもそもは日本に禅を学びにやってきた夫が一人で静かに坐禅できる場所を探していて、偶然そこを見つけたのである。数々の空き家の中で、保存状態の一番良い家の持ち主に借りられるかどうか聞いてみたところ、親切な家主は私たちにその家を全く無償で貸してくれた。私たちは、10キロほど下にくだった町で、今はもう使っていない蚕納屋(かいこなや)を借り、英語塾を開いて生計を立てた。
私たちのいた小さな集落やその周りには、満州からの引揚げ者やゆかりの人たちがまだ何人か住んでいた。それは、ちょうど残留孤児の親探しが始まった頃だった。現地で面倒をみてくれていたおじさんが、そのボランティアを買って出たことを知った。「おっちゃんはな、それ、他人事とは思えんだよ」と言って、受け入れの手伝いなどをしていた。満州は、その当時、まだ多くの人の記憶と地続きだった。だがそのうち、我が家にこどもたちが生まれ、結局私たちはドイツに移住することを決意し、ほぼ10年住んでいたその山梨の家を後にした。
時は流れる。数年前、親しくしている80代のドイツ人女性から、「彼女が活動をしている『被追放女性同盟』の研究会で講師のキャンセルが出た、そこで一コマ講演してもらえないか」と声がかかった。私はかねがね東欧からのドイツ人追放・避難という問題に、日独の戦後の歴史的共通性を見ていたので、満州からの引揚げ者たちについてというテーマならと引き受けた。
その際、私は長野の満蒙開拓平和記念館に資料を問い合わせ、そこでこの博物館とつながった。私の講演は、ありがたいことに東欧からの帰還当事者たちの関心を呼び、彼らにとってもドイツ軍が戦ったソ連勢力下の東側地域で同じような事象が起きていることを初めて知ることとなった。私は私で、中国残留孤児のように、ドイツ人のこどもたちがかつての占領地に取り残されていたことを知る機会ともなった。
その次の年、今度は長野から、「アウシュヴィッツを訪ねるツアーと合わせてドイツを訪問し、この女性同盟の人たちと交流を持ちたい」という希望が寄せられた。ボンの戦後史博物館を訪問するなどして、有意義な時をともに過ごした。

さらにその翌年、今度はドイツから「被追放女性同盟」の女性たちが日本を訪ねる番となった。2019年、満蒙開拓平和記念館で、『日本とドイツの引揚者・帰国者の戦後』というテーマで開催されたシンポジウムに、私はドイツ人グループとともに企画準備段階から参加した。「対話から学ぶ歴史と未来」というサブタイトルの通り、互いの戦後を知り、学び、今何ができるか考えるというものだったが、深く心に残る出来事となった。そして今回、長野の記念館から訪中旅行のお誘いを受けて、これはやはりどうしても一度現地を訪れねばと思い、参加した次第である。



歴史が立ち上る
ハルビンで合流して、そこで最後に一行と別れるまでは、中身のぎっしり詰まった5日間だった。今回は単なる観光旅行ではなく、この訪中に先立つ勉強会で、満蒙開拓団の跡地を訪ねるための基礎知識を得ての参加だったことも大きい。
何よりも特徴的だったのは、一行の中に90歳の元開拓団員の女性を含む当事者がたくさん含まれていたこと。残留婦人の息子として育ったいわゆる残留二世の男性が18歳まで住んでいた家を見た時の感慨、団員が多数犠牲となった松花江(しょうかこう、中国東北部を流れ、アムール川(黒竜江)に合流する)わきの跡地で手を合わせる開拓団員二世、たまたま出会った現地の人に案内してもらい、やっと母の住んでいた場所を突き止めた同じく二世。そして、10歳で引き揚げてきた90歳の元開拓団員の女性がたどりついた、今はトウモロコシ畑となっている小学校のあと。人々の思いを広大な満州のきわめて小さな場所に落としていく。その密度の濃さ!それを周りで見ている私たちも、彼女、彼らに共鳴し、80年前の歴史の重みをかみしめる。その時、その場で歴史が立体的に立ち上っていく。

だが、その当事者の思いは、さまざまな意味を帯びている。住み慣れていた場所への愛着、かつて開拓団で汗を流した人々の素朴な活力を感じる一方、今は中国の人々が平和に暮らしている裏側にあった日本人の歴史が跡形なく消失したことへの寂しさ、悲しさ。集団自決をはじめとする開拓団員の悲惨と苦難、しかし、その無念をおおっぴらに主張することができない、実は中国を侵略する先兵としての加害者だった自分たちの存在。
この感情のもつれをどのように表現できるのか。いや、いったいどのような感情を持つのが、「政治的・社会的」に正しい反応と言えるのか。立ち上る歴史が私たちにここから投げかけるものは、あまりに重い。当事者がさらされているジレンマに、後続世代の私たちも同じく投げ込まれる。
あらためてとことん思い知らされたことは、戦争はひとりの人間に必ず加害と被害の二面をもたらすという事実だった。だが、前線の兵士でもない限り、戦争当事者には通常、加害の自覚がない。つまり、戦争加害というのは、集合的な性格でしかない。それに対して、被害は常に個別的具体的に生じる。さらに、当事者性のない後続世代に至っては、加害の自覚も被害の痛みも、どちらも希薄になる。この戦争の持つ二面性をどのように捉え、そこからどのような学びを引き出し、次の行動につなげていけるのか。

東欧からのドイツ人帰還者の戦後
立ち上ってきた歴史を、当事者のような重みで受け止めた私は、自分がいったい何をどのように考えたらよいのか途方に暮れた。もがきながら二つのことを思いついた。その一つ目は、この戦争の持つ二面性を、同じ敗戦国であるドイツでは、どのように受け止めているのか知ろうと思ったことである。ちょうど満州を旅行していた折、上述した満蒙開拓平和記念館でのシンポジウムにパネリストとして参加しておられた木村護郎クリストフ上智大学教授から、こんなメールをいただいた。
「くしくも私は、現ポーランドの、旧ドイツ・ポーランド国境地域を訪ねる歴史研究者向けのツアーに参加してきたところです。ドイツ人、ポーランド人、ユダヤ人の共存の跡、そしてそれが破壊されていく過程をたどることで、現地ならではの驚きと発見に満ちた旅でした。」
「戦間期にドイツ人少数者の『民族学校』があったことから、ポーランドの別の町に住んでいた祖父母がそこで学校に通い、出会った町を訪ね、祖父が住んでいた寄宿舎(今は警察署)を訪ねることもできて、感無量でした。」
それは、今はトウモロコシ畑になっている、90歳の引揚げ者Mさんが通っていた小学校を訪ねたときの思いと寸分変わらぬものではないか。
こういう土地への愛着に、戦後ドイツの帰還者たちはどのように向き合ってきたのだろう。しかも、東欧に定住していたドイツ人(いわゆるVolksdeutsche)の居住地のかかわりは、たかだか14年続いた満蒙開拓団とまったく違い、何百年単位で培ってきたものである。調べてみると、それぞれの居住地での社会全体からドイツ人に向けられる眼差しによって若干の差はあるが、戦前には民族的疎外感からナチスの「民族統一」思想に希望を託した者が多かったという。
しかし戦後の追放と故郷喪失によって、彼らは「被害者」としての意識を持ち、加害の側面を回避した。それが徐々に変化を見せていくのは、ドイツにおける『1968年』のいわゆる社会的な「異議申し立て」以降である(拙稿参照)。以前にも書いたが、この時代がドイツの戦争に対する記憶を、自分の親世代の出来事として呼び覚ました。
1970年には、当時のブラント首相が、あの有名なワルシャワゲットー記念碑前で額づく写真に象徴されるような東方外交を展開、ドイツが旧領土について野心がないことを世界に向けてアピールした。ただしこの時点では、帰還ドイツ人の大きな反発があったと言われている。
そのような状況を大きく変えたのは、1979年にTVで放映されたアメリカの長編ドラマ「ホロコースト」だった。ユダヤ人家族の「物語」を、人々がはじめて心情的に受け止めることにより、そこにつながるドイツ人としての加害者意識の形成が促されたのである。70年代以降、学校での歴史教育も変容し、歴史を自分ごととして考える態度の育成が目指された。そして80年代後半以降は、冷戦の終わりや世代交代とともに、加害の上に立って被害もようやく語れるようになり、現在のドイツ社会にあるような戦争への二面的な国家記憶が形成された。
満蒙開拓平和記念館との交流に努める「被追放者女性同盟」の基本姿勢は、ウェブサイトによれば、帰還者たちのトラウマを解き、アイデンティティの形成を促し、彼らの故地における彼ら独自の文化の継承を担い、民族間の和解を目指しているとある。やはり、根底には、加害者としてのありようへの自己認識、とりわけ教育を通しての歴史理解が進んだからだろう。
帰還者たちが和解に向けての積極姿勢に転ずることによって、かの地の人々の信頼を勝ち得ると同時に、帰還者たちの被害者感情も受け止めてもらえるようになったのだと思われる。女性同盟での私の講演のきっかけを作ってくれた私の親友でもある帰還者女性は、故地に残してきた先祖のお墓がとても大切だと言っていた。それを聞いたとき、私はドイツ人にもそんな一面があるのかと意外に思ったのだが、こうして帰還者たちの戦後を振り返ってみるとその主張にうなずける。満蒙開拓団の当事者たちの故郷への愛着を阻むものは、つまり、もう一つの一面である加害者としての認識が、わが国ではいまだ国民的合意に程遠いことのように思われる。
『敗戦後論』
さて、現地でもがいていた私がもう一つ思いついたのは、帰ったら加藤典洋の『敗戦後論』(1997年、講談社)を読んでみようということだった。あの本が出版された当時、あまりに批判の声が大きかったので、私は恐れをなして読まなかった。
満州で私の頭をよぎったのは、「日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジアの二千万の死者への謝罪に至る道は可能か」というあの有名なフレーズである。満蒙開拓の現場で、当事者たちのきわめて複雑な感情の表出を見た私は、この感情をまず受け入れるところからでなければ、加害者としての謝罪も生まれまいと直感したのだ。すると「戦争は必ず加害と被害の二面性がある」という認識に到達する。その上に立って、自分たちの被害を心ゆくまで悼む。
今回の訪中旅行最終日は、ハルビンに置かれていた旧陸軍の731部隊についての陳列館だった。ちょうど抗日戦争勝利80周年で盛り上がっていた頃で、博物館前は長蛇の列だった。日本軍の残虐な人体実験の展示に気分が悪くなるような思いでそこを出た後、私たちは旧館に向かった。


そこは以前、本館として使っていたのだという。その一角に、中国養父母展のスペースがある。といっても、数年前に政治的配慮だろうが、そこは公開されなくなり、特別な機会にしか開けられないとか。そこには、中国残留孤児を自分の養子として育てた父母たちが、精一杯資料を集め、開拓団と置き去りにされたこどもたち、そのこどもたちを取り巻く中国の養父母たちの実態についての愛情こもった展示が行われていた。その展示にかけるひたむきさが、私たちの心を打った。
たった今見た日本軍の残虐行為とあまりに対照的な養父母展。ここにあるのは、戦争の二面性と合わせて、もう一つ私たち人間一人ひとりが持っている光と闇の二面性である。戦争のとき、そして戦争のあとさき、私たちはひとりの人間として、どのような行動をとるのか。厳しく私たちに問いかけてくる。その問いかけに真摯な決意をもって答える覚悟があるとき、私たちは被害を心ゆくまで悼むことができるだろう。
「選憲論」
満洲から帰ってきて、上野千鶴子さんに『敗戦後論』を読もうと思っているとメールに書いたら、すぐに参考資料が送られてきた。まったく知らなかったのだが、上野さんは加藤典洋と親交があったのだという。
上野さんは、当時激しい論点となった「無駄死にした日本の死者の哀悼」では、敗戦を起点として初めて立ち上がる彼の論理を忘れてはならないと指摘する。そしてそれゆえに平和主義や民主主義が敗戦によってもたらされた「ねじれ」から、今度は意識的に自分たちで憲法を選び直そうという加藤の提案は、上野の著書「上野千鶴子の選憲論」とぴたり重なる。
つくづく思うのは、戦争はいったん起きたら最後、いやおうなく戦争の二重の負荷を受けざるを得ないということだ。被害者にはむろんなりたくないが、加害者にもなりたくない。今頃になって、戦争がトラウマとして表れて人々を苦しめていることに、最近の学術的知見がある。戦争は、長く人々の意識を支配する。だとしたら、戦争は絶対に起こしてはならない。そこから論を進めていくしかない。そこで、現実的に私たち日本人ができることは何なのか問うと、それは憲法9条を今私たちが意識的に選び直すことに行きつく。
今回の訪中団で、残留2世で18歳のとき中国から帰国した男性と個人的に話す機会があった。その彼が、私にこう言っていたのが印象に残っている。「日本に来た時、憲法に戦争放棄って書いてあるけど、そんなバカなことできっこないと思ったよ。でも、日本に暮らしてだんだん、ああ、そんなこともできるかもしれない、いや、できるんだってね、今は思っている。」私たちは、今こそ、加害者にも被害者にもならないために、この憲法を選び直したい。
<初出:「ドイツに暮らす㉑」、『言論空間』、現代の理論・社会フォーラム、2025年冬号。許可を得て加筆修正の上、転載。>

