20年以上前に購入した我が家は、その所有者がデュッセルドルフの楽器店店主だったこともあり、広い居間はグランドピアノが二台置けるほどの広さで、室内楽の演奏を想定して作られている。もっとも最初は、さすがに1937年に建った家であり、壁も窓も老朽化してガタガタで、まさにお化け屋敷そのものだった。
建築されたのは、ナチスが政権を取っていたときで、当時の法律で防空壕の設置が義務付けられていたので、地下に黴臭い横穴が存在する。この家を、夫が何人かの職人さんたちと一緒に10か月近くかけて改装し、なんとか人が住めるように仕上げた。それ以来、かなり長い年月私たち一家が住んでいただけだったのだが、5年ほど前、私の住む町の近くにあるニーダーライン交響楽団 のヴァイオリニストと知り合ったことにより、我が家の居間が室内楽ホールとしてよみがえった。定期的にコンサートを開催するようになって、毎回、近隣やデュッセルドルフに住む私の友人たちが音楽を楽しみに集まってくる。
この歌知ってる!
さて、2024年11月のこと、いつも皆に大うけするテノール歌手のコンサートを開催した。彼はカザフスタンの出身だが、地元のオペラでも人気が高く、この日は「歌は世界をかけめぐる」というタイトルで、彼の妻の演奏で朗々とドイツ、ロシア、イタリア、カザフスタンなどの楽曲を歌い、拍手喝采だった。人を惹き付ける彼の人柄もあり、聴いているだけで楽しくなる。私にはシューマンの「献呈」以外はすべて知らない曲ばかりだったが、ドイツ特有の陰鬱な秋のひととき、心が温かくなった。

コンサートが終わり、後片付けも全部済んだ深夜、夫と二人で今日のコンサートの余韻に浸っていたとき、夫がふと言った。「今日のプログラム、最後の方の曲、ほとんど全部知ってたよ。」 ええっと私は驚いた。
そもそも夫はあまりクラシックには趣味がなく、我が家で開催するコンサートや、私が誘えば、たまに大きなホールで演奏される交響曲なども喜んで聴きに行くのだが、こんなマイナーなイタリアの歌曲を知っているとはびっくりだ。と、私は思ったのだが、夫の説明によれば、これは彼がこどもの頃、クラシックながらドイツですごく流行った曲なのだという。
いわゆる歌謡曲のテイストだが、その当時は、こういう晴れやかで堂々とした歌いぶりの曲が人気があったそうだ。考えてみれば、私のこどもの頃も日本でそうだったし、美空ひばりが大衆曲の前面に出ていた時代だった。ポップやロックなどが登場するのはもっとずっと後のことで、4歳下の夫も私もたしかに中学生の頃は、ビートルズやローリングストーンズを聴いていたが、それ以前は歌といえば、一人でマイクの前に立っての朗唱だった。こんなところで、世代の共通点が浮上するとは思いもかけなかった。

ピザは共通
つくづく最近思うのは、年を取ってくると、私たちの食べ物の嗜好において、昔、子どもの頃に培われた味覚が決定的な影響を果たしているということだ。
私たちは1970年代の終わりから1980年代の中ごろまで、山梨県の山奥に住んでいた。そこでの食事は、地元の食材を使った伝統的な和食で、当時はなんの問題もなく夫もその食生活に適応していた。私たちは、春には山菜を取りに行き、シイタケを収穫し、秋には渋柿を剥いて軒先に干し、初冬には大根を沢庵用の樽に漬け――要は季節の野菜でおかずを作り、それにご飯と味噌汁を合わせるという毎日だった。
記憶に残っているのは、初めてコンビニがその山梨県のふもとの町にも誕生し、コンビニの出来合いの総菜が家庭の中に入り込んできた当時のことだ。マックもラーメン屋も近くの町にはあった。もちろん、ハンバーグとかスパゲッティとか洋風の食べ物を食べるときも少しはあって、それは日本の一般的な家庭の食卓と変わらないものだった。
我が家では、食事作りは基本、私の役目であって、この食生活をドイツに移住してからも続けていたが、最近、とみに目立つのは、夫ができれば、ドイツの肉やジャガイモを使った料理を食べたがるということである。それを私が作ることもあるが、夫が自分でその純粋ドイツ料理を作ることも多い。それが数日続くと、私は今度は逆に日本食が食べたくなる。そこでまたご飯と味噌汁が入り込む。お互い、子どもの頃にしみついた習慣が抜けないのだとつくづく思う。

私たちは、今流行りのエスニック料理をほとんど知らない。そもそも歴史的というとちょっとオーバーかもしれないが、私たち二人とも、その伝統食がしみついている世代に生まれている。グローバルな動きがだんだん加速してきて、知らない世界の料理が一般化するのは、ずいぶん後のことだと思う。私たちにとって外食といっても、子どものころは、ドイツであればヴィーナーシュニッツェルなどのドイツレストランだし、日本では、寿司とそば店。
ところが私たち二人が青春を過ごしていたころの外食で、時代の先端と感じて食べていたものが意外に共通しており、それがピザなのだ。以前ここでの記事にも書いたように、ドイツでは外国人労働者が入ってくると同時に、その地の食文化が入ってきた。日本にイタリアのピザが入ってきたのは、イタリア人労働者がきたからではなく、1970年開催の大阪万博が初登場と聞いている。二人でピザの記憶について話すと、驚くほど時代が一致しており、またその新しさに目を奪われたこともそっくりだ。


世代の差は文化の差を越える
ところで、私は日本の大学では考古学を専攻していた。主とした研究対象は、国民国家などの枠組みもまったくなく、さまざまな地域性のある土器や石器の「文化」が広く地球上に広がっている時代である。悠久な歴史の流れと、人々の営み。こういうものをずっと眺めていると、今の時代の国家エゴや、それによって発生する紛争や戦争がばかばかしく思えてくる。修士課程の時の指導教授であった量博滿先生が、私たち院生によく語っていたことが思い出される。
「考古学研究者は、同じ形式の土器や石器が見つかると、すぐにこの文化はあちらからこちらに伝搬したのだとか言う。しかしねえ、君たち、人間なんて、根本的にどこでも同じことを考えている生き物なんだよ。世界各地で自然発生的に同じ形式の道具を使い、同じ様式の文化があったということも想定してみなければいけない。」つまり、安易な文化伝搬を考えるなという教えであった。
また、その教授がこうも言っていた。「実は、世代の差は、国際間の文化の差より大きいと言える。」つまり、1960年代のドイツと日本の文化の違いは、2020年代と1960年代のそれぞれの国における文化の違いと比べて、ずっと小さいということを意味している。
日本人の常として、外国というのは、海を越えていく場所であり、そこには大いに違うものがありそうに思っているのだが、実は同時代であれば、たとえ海外であっても自国のそれとさほど違うものがないということだ。
これは、日本国内にいるだけではなかなか理解できないことかもしれない。私も教授のこの言葉を聞いた当時は、あまり納得することはなかったが、自分がドイツに移住してしばらく経ち、この国の変容を見ていると、つくづくその言葉に思い当たるようになった。異なるのは、国家間の文化差ではなくて、時代の差なのだと。
地球上に広がる自然環境、世界規模の歴史的経緯、さまざまな文明の利器の発達、そのようなものが作用して、どんなところに生活していようと、人間は等しく同じことを考える。地球には時代による輪切りの文化が発達していく。
私も夫も、日本とドイツと国は違えど、戦争の傷跡がさまざまに残る世相や人々が貧しい暮らしをしていたことを肌感覚として知っている。まだ社会には、伝統的な規範というものがあって、それが無言のうちに人々を支配していたこともうなずける。勤勉を重んじる社会道徳もそうだし、ネガティヴなことではあるが、男尊女卑の実態もあった。
先にあげた音楽や食生活も、当時とその後の変化のありさまも同じである。これはたまたまドイツと日本が敗戦国だったからという条件を越えて、広く当時の世界に広がる共通記憶なのだろうと思う。その私たちが、自分たちのこども世代を見ると、感覚と思考経路の圧倒的な違いを感じるものだ。
学生運動の遺したもの
私たち二人が共通して持っている時代の記憶には、もう一つ、大切な要素がある。それは学生運動、それに引き続くいわゆる過激派に対する社会の恐怖と嫌悪だ。68年世代の最後尾に連なっていた私は、かなり渦中のこととしてこれを受け止めていたが、私より4歳下の夫も、学生運動に直接参加した経験はないが、学生たちのデモを目撃したことがあると言う。
たまたま一緒に歩いていた彼の叔母がそれを見て、顔をしかめながら「何をやっているんだろうねえ。」とため息交じりに肩をすくめたのだそうだ。彼女は、体形や日常会話から、着ている洋服・食べ物まで、まさに古い世代の典型的なドイツのTante(おばさん)だったが、そういう人たちから見れば、この学生たちの異議申し立ては、まったく別世界の話で、ただただ理解のできない連中にしか見えなかったのだろう。しかし、当時こどもで、そばで見ていた夫は、何か大きなエネルギーの発露を感じていたらしい。若者たちの反抗に対するその上の世代の無理解、軽蔑、批判、そして嫌悪は、日本でも同じ事情だったのではないか。
ドイツの1968年を伝える展示(Haus der Geshichte)
とはいえ、この時代の出来事は、ドイツで大きな変化をもたらした。これも以前の原稿に書いたので繰り返さないが、学生運動が日本の社会にそれほどの変革をもたらさなかったということは両者の大きな違いである。
だがしかし、この「社会に対して異議申し立てをする、それもかなりカジュアルな形で行動を起こしうるのだ」という確信が、私たちの心の中には共通して堆積している気がする。心情的に体制に流されないという警戒感でもある。これはドイツと日本で、この世代に属する者の間に差異は感じない。
ドイツでは、若者たちが環境に対する危機意識や社会的公正・ジェンダー平等・多様性の実現などを求めて、さまざまなアクションを行っている。日本の若者はそれに比べて保守化が目立つが、それでも少数ではあるが似たような社会活動を展開している。
どちらの若者たちも、私たちが目撃した暴力的なまでのプロテストで人々が戦々恐々としている場面を見たわけでない。社会は意外に簡単に変えられそうだという楽観的な予感を経験した私たち世代は、今の社会のエスタブリッシュな側面をまずそのまま受け入れて、そこから出発するという現代の若者たちのハードルの高さとは心理的に違うのではないかと感じている。
今の時代のメルクマールは
では、今の時代の共通記憶を形作るものはなんだろう。若者たちが将来、この時代を思い出して、洋の東西を問わず刻印されるものといえば、SNSとスマホに違いない。そしてこのネットによるコミュニケーションの流動性は、ますます国家間の個別文化差異を越えて、世界中に広がっていく。
また、もう一つ共通項としてあげられるのは、人々の移動による移民の増加である。紛争や戦争の結果、また経済格差の結果、その土地にあるネーションに属していなかった人々が、大挙して押し寄せる時代。これを私たちはどのように捉えたらよいのか。ドイツで近頃頻発する不法滞在移民たちのテロ、その逆に日本で扇動されるヘイトデモやヘイト犯罪は、政治の恰好なイシューとなる。移民は極右の跋扈する理由となり、これは世界的な傾向となる。
しかし実は、私たちが今当たり前のように思っているドイツとかフランスとかいう国の枠組みが、決して長い歴史を持つものではないということを教えてくれたのが、数年前訪れたブリュッセルの欧州史博物館である。
設立間もなかったこの歴史博物館の入口にある展示の始まりのところに、EUという地域の、考古学で明らかになった長い時代が提示され、その圧倒的な長さの時代に続けて、古代・中世・近世が掲示され、その最後、圧縮機で押し込められたような時間配分にしか見えないところに国民国家が成立する。その短さが来訪者に印象づけられる作りなのだと思う。
どれほど長い間、ヨーロッパ内で、さまざまな民族がいかに多くの移動を繰り返していたことか。それに対して、この最後のごく短い部分が二つの大戦を引き起こして、人々に過酷な運命を強いたわけである。そして今はさらに、EU外から来る人々がこの地域に入り込んできている。
ドイツに暮らしていると、EUの結びつきが大きな意味をもっていて、ドイツ独自の課題を越えて、共通して対処していかねばならないと感じることも多い。とりわけ気候変動に関する危機感は、世界中で取り組んでいかなければならないと認識されている。
この問題意識のありようは、各国でおそらく程度の差がかなりあるだろう。私たちはつい最近、気候温暖化などどこ吹く風、自国ファーストを唱えるトランプのアメリカを見たばかりだ。しかし、世界的規模で自然災害や大火災が発生している今は、緊迫感の相違はあれ、これがやはり一つのメルクマールであると言えるだろう。
そして、移民の増加とともにあらわれるもう一つの現代的現象。食べ物のうえでは、多くの国で見られるエキゾティックな食べ物への関心だ。今、ヨーロッパでは、日本食への熱いブームが巻き起こっている。スシはもちろんだが、あの戦火のさなかにあるウクライナ、キーウでも新しいラーメン屋が何軒も誕生しているとか。そして日本では、モロッコやインドネシア、ジョージアなどの料理が注目を集めているという。人々は食へのあくなき関心から、あらたな食材を掘り起こしていくに違いない。私と夫が昔感動したピザは、今やどこの国でも定番だ。
先にあげたドイツと日本の世代的近似性は、50年前は必ずしも発展途上国では共有されていなかったかもしれないが、これからは経済的差異には関係なく、世界文化の共通性に変わっていくと予想される。その意味で、長い人類の歴史の果てに、私たち人類はまた、考古学的な時代の文化特性に逆戻りしていくのかもしれない。