長野県松本市で福島県二本松市在住の関久雄さんの映画「かくれキニシタン —声を上げる10年目の福島—」の鑑賞と関さんのトークの催しに参加した。関さんは、福島の現状を詩に紡いでいる。私は関さんの詩の力強さに打たれ、詩「たたり神」をドイツ語に訳して、ドイツでの福島関連の催しで何度か朗読させてもらったご縁がある。
この映画を見て、改めて福島第一原発事故は終わっていないのだと感じた。国は居住地区のみ除染をし、避難した人たちの住居支援を打ち切り、故郷は無事だと訴えるが、帰還しない人はたくさんいる。帰還しても放射能を気にしながら、けれど気にしていることを隠して日常を送る人々がいる。避難先で福島出身だといわない、また避難先から福島に再び戻った人も自分は帰還者だと言わないという話もできてた。言ったところでいいことは何もなく、差別されるだけだからだ。
この映画は2020年の夏に米沢と佐渡で実施した保養の記録を中心である。参加者のインタビューを撮影するうちに関さんは「福島に生じている対立や分断が見えてきた」という。被ばくの危険性を危惧していても、それを大っぴらに言えない人たちが出てくる。江戸幕府の迫害によってキリスト教信仰を隠した人々は「隠れキリシタン」と言われたが、それをもじって放射能をこっそり気にする人を「隠れキニシタン」とした。知り合いが思いついた言葉だという。
映画の中で精神科医の蟻塚亮二さんは、福島の現状について「加害者がはっきりしていないから解決しない」と語った。加害者が謝罪し、現状を回復するべきなのだがそれができていない。そして被害者は我慢ばかりせず、感情をもっとストレートに出すべきだという。
関さんは2012年に汚染土を持って福島から歩き、東京電力と経産省に届けた。理不尽なことには声を上げ、行動している。 関さんはNPO法人ライフケア(福島県二本松市)の代表であり、2011年から佐渡島の古民家「へっついの家」で保養事業をしてる。これまで400名以上が参加し、コロナ禍の昨年の今年も実施した。保養を必要とする人は多いが、受け入れ先は減ってきている。チェルノブイリ原発事故ではいまだ行政が保養を実施しているが、 日本にはなく、民間が善意で頑張っているのが現状である。
一方、避難は不要であり、不安に思うのは心の問題であり、保養は必要ないと声だかに言う人がいる。自分が必要ないと思うのは自由だが、それを他人に強制しようとする人たちがいるのは解せない。関さんは保養を計画しクラウドファンディングで資金集めをしたところ、激しいバッシングを受けた。保養を実施するのは福島は危険だといっているようなものであり、風評被害を広げるというのがバッシングの理由である。詐欺師呼ばわりされたこともある。
この出来事は、他人の自由な選択を許さないという日本の同調圧力が反映されていると感じる。日本では選択的であっても夫婦別姓、またLGBTの権利を認めようとしないのもそうだろう。結婚するとき同姓か別姓か選べるようにすることになんの問題があるのだろうか。同姓がいいと思う人がいればそうすればいいし、別姓がいい人は別姓にすればいい。LGBTの権利もしかりである。他人に自分の意見を押し付けることはない。
しかし押し付ける側はいろんな理屈を持ち出して、相手を責める。相手の選択が、周囲や社会を損なうという。本当にそうだろうか。自分の価値観を押し付けるのはなぜだろうか。
福島原発事故が起こってもう11年になる。
岸田政権は、原発政策の方針を大転換し、再稼働だけでなく、歴代政権でも踏み込まなかった「新増設」や「運転延長」を進めようとしている。
11年たっても、事故前の生活に戻れない人がたくさんいる。関さんはおかしいと思ったことに対して声をあげ行動し続けている。地道な活動はまだまだ続く。
『詩と写真でつづる311 関久雄「原発いらない、命が大事の歌」』で、関さんの詩を読むことができる。