世界コロナ日誌35回目はメキシコ。IFJ国際ジャーナリスト協会東京フリーランスユニオン代表、奥田良胤氏のご仲介で、亀山亮氏のレポートをお届けする。
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昔からの仲間のメキシコ人のジャーナリストが6年間服役の末、2017年に釈放された。彼に会おうとメキシコを再び訪れたことがきっかけで、カルテルの取材を始めたのだった。
麻薬カルテルのボスから取材許可を取る
メキシコ南部、太平洋に面するゲレロ州は、かつてはアカプルコというリゾート地で知られていた。しかしケシの一大生産地であることから、長年麻薬カルテル組織の抗争が続いている。砂に水が染み込むように人々の日常生活の中に暴力が蔓延し、汚職によって法執行機関がカルテル組織と一体化し、暗殺犯や誘拐犯が逮捕されることは皆無に等しい。
あるカルテルのボスとの長い交渉の末、取材許可を取り付けることができたのは、2020年2月のことだった。敵対するカルテルとの前線地帯となっているS村の待ち合わせ場所に到着すると、覆面姿の完全武装の兵士たちが待ち構えていて驚いた。平静を装って兵士たちと挨拶を交わしていくうちに、日本人という珍しさもあって、「以前、ボスが雇ったロシア人の傭兵と一緒に攻撃に行ったら、途中で泣き出して大変だったよ。あんなに体が大きかったのになぁ~」とみんなが懐かしそうに話し始めた。
どうやら彼らになんとか受け入れられたようで、一安心する。S村は携帯電話も通じない小さな村で、周囲を敵対するカルテルが支配する険しい山々に囲まれたすり鉢状の盆地の中にあった。一見すると、メキシコのありふれた村だが、長年ケシ栽培を生業としてきた。近年、ヘロインの価格が暴落し、採算が取れなくなったケシ栽培の農民は、現金収入を求めて、多くが街に働きに行くようになったという。
ゲレロ州で毎日のように起きる暗殺事件の現場 ©亀山亮
カルテルの抗争なくなれば、貧乏でもいい
カルテルに雇われた兵士およそ30人が常駐している拠点の建物の壁面は敵の銃弾で穴だらけで、防弾仕様のセダンも破壊されていた。カルテルの争いに巻き込まれている農民たちは、報復を恐れて外部の人に対する警戒心が強い。はじめのうちは道を尋ねても答えてくれないことが多かった。そのうちにうちとけて村の老婆がそっと話してくれた。
「ヘロインの値段が下がって大変だけど、ヘロインがなくなれば抗争もなくなるので、いいと思うよ。貧乏だけど、昔のように自給自足の生活で家族が安心して生活できることが一番だよ」「抗争が始まるまえは村同士の交流も自由だった。このまえ、危ないから行くなと止めたのだけど、『自分は家族が向こうにいるから大丈夫だ』と学校の先生がビデオカメラを持って近くの敵の支配地域の村に出かけたきり、戻ってこなかった。村に続く山道の途中で壊されたビデオカメラだけが見つかったよ」と、毎日通っているうちに仲良くなった雑貨屋のお爺さんが言った。
侵入監視のパトロール、同行取材で崖から落ちる
殺し屋のMと普段はトルティージャ屋(メキシコの主食でトウモロコシを粉にして焼いたクレープ状のパン)で働いているというCと3人で、毛布と水を抱えて村外れの山に敵の侵入を監視する兵士たちの24時間パトロールに同行する。パトロールの拠点地は、小さなビニールシートの上に草木を被せてカモフラージュした粗末なもので、乾季の今は、日中は焼けるような日差しで、夜間は厳しく冷え込む。
周りに牛が放牧されているため、日が暮れるとヌカ蚊が大量に発生する虫除けがわりに使っているというシャンプーを皮膚にすり込む。正面の山頂にある村は、彼らの支配地だったが、2年ほど前から敵の勢力に占領されていた。
僕が来る1週間ほどまえ、夜間に山中を移動して敵を攻撃したばかりの彼らは、敵に報復されるのではないかと無線で常に連絡を取り合い、ピリピリしていた。以前に、他の村で闇夜に紛れてやってきた敵にパトロール隊が見つかり、バラバラに切り刻まれて殺されたことがあったという。兵士たちは組織からアルコールを飲むことを禁じられているので、村で作っているマリファナを吸うことが多い。
Mたちと山へパトロールに出かけ、月夜の明かりを頼りに急な坂道を降りていく途中で、僕は道を踏み外し、崖から落ちてしまった。 吃驚し、慌てたMたちが「大丈夫か」と声をかけてくれたが、しばらくは痛さで息ができなかった。背負っていたカメラバックが緩衝材となって、奇跡的にたいしたケガをせずに済んだ。
「お金のためにカルテルへ、抜けられなくなった」
首にかけていた2台のカメラの無事を確認して「とりあえずカメラだけは大丈夫だ」と答えると、Mは「カメラだけか?ハポネス?」と言い、酔狂なカメラマンだと思ったのか、腹を抱えて大笑いした。彼らは、仲間内ではコードネームで呼び合い、僕は皆からハポネス(スペイン語で日本人という意味)と呼ばれていた。そして、それがきっかけで彼とは個人的に親しくなっていった。
暗闇に染まった夜、Mはマリファナを吸いながら普段はあまり喋らない自分の家族のことをリラックスした様子で話してくれた。
「貧しい家庭に育ち、学校にも行けずに、小さいころから駐車場の誘導員として働いてきた。金払いがよかったカルテルの仕事を手伝い始め、気づいたら抜けられなくなっていたよ。もう自分の家族にも会えないよ」
「今使っている携帯電話は、裏切った仲間をボスの命令で殺して奪ったものだよ。暗証番号を割り出すのは大変だったけどね。そういえば、靴も貰ったな」 サムソン製のスマホを見せながら少年の面影が残る19歳のMは悪びれることなく言った。
Mは町でカルテル間の抗争が激化したため、ヒットマンとして昼間は隠れ家に潜み、夜間に移動しながら暗殺を続けたという。この抗争で数週間のうちに、20人ほどいたMの仲間たちは次々と殺されてMだけが生き残った。
「今まで数十人は殺してきたと思う。もう自分の出身地や敵のスパイがいる町には戻ることはできないよ」と言う。行き場を失ったMは月給およそ200ドルで前線のS村に送り込まれてきた。一度、暴力の「円環」に組み込まれると彼らは敵味方に分断され、死が訪れるまで途中下車はできなくなってしまう。そして彼らは、自身の生を全うする事はなく短い命を駆け足で終えていく。
彼らと長く生活を共にしていると、ラテン系特有の明るさで冗談を言い合い、どこにでもいる若者のように見えるが、ふとした瞬間に彼らが見せる眼差しは生死に対しても感情を表すことなく、他者のありようにもドライに反応することに気づく。
S村に常駐する麻薬カルテルの兵士たち ©亀山亮
前腕全体に息子の名前のタトゥー、Kの場合
「どんな状況でも動くカラシニコフ(旧ソ連の主力自動小銃AK47の別称)が一番だよ。使い物にならないアメリカ製の自動小銃から、交換する許可をボスからもらったよ」と前回の攻撃で殺した相手から奪ったという使い込まれたカラシニコフを誇らしげにKは見せた。Kは前腕全体に彫りこんだ息子の名前のタトゥーを見せながら「自分は有名な政治家を暗殺したので、もうどこにも行く場所がないよ」とS村に2年近く滞在していた。他の兵士と違い、彼はいつも几帳面に銃を分解して掃除をし、20キロ近い弾薬を肩に食い込ませながら、常に持ち歩いていた。「もう習慣になったから気にならないよ」というが、彼の後ろ姿に僕は、突然に襲いかかる死への恐怖を見たように思った。
しばらくすると政府軍のヘリが村の周辺に低空飛行でやってきた。ヘリのやってくる頻度が増え、村の通信も遮断される時間が多くなった。政府軍は別のカルテルを偵察していたようだ。その後、近隣の村が敵のカルテルに攻撃され、KをはじめS村の兵士たちは、他の前線への応援部隊として急遽送りだされることになった。
S村の村長は、自分たちの村が再び攻撃されるのではないかと怖れ、「きちんと防御態勢は取れているのか」と興奮気味に若い兵士たちに詰め寄っていた。「生まれ育った村を戦闘のとばっちりで追い出されたら、家族はどこへ行けばいいというのだ。俺は、息子と死ぬまでここで闘うよ」と村長は覚悟を決めたように言った。
S村からの退避、コロナ禍で日本へ
アメリカで逮捕され刑務所から直接メキシコに強制送還されたばかりだという年配男は、村長の言葉に顔色を変えて、「契約の約束の期間は過ぎたのだから、一緒に来た仲間と帰る」と言って、急いで荷造りを始めた。僕は攻撃された村の取材許可を取るために、ボスがいる拠点に向かうことにした。
麓の街に出るとコロナウイルス感染症の拡大の影響で、街場の様子は一変していた。様子を見るために、一度メキシコシティの戻ることにした。
3月に入ると、メキシコシティの状況は日々悪化し、アジア人の僕の姿を見ると、口を塞ぐ人も出てくる始末で、メキシコ国内の移動も難しくなってしまっていた。ボスとの再交渉も見送らざるをえなかった。取材半ばだったが、一度日本に帰国することにした。
メキシコシティの空港で現地の仲間のジャーナリストに連絡すると、「お前が行っていたS村が総攻撃を受け、大変なことになっているぞ。たった今、俺もS村の取材から帰ってきたばかりだ」と言った。その後、僕が取材していた麻薬カルテルの拠点は、敵対していたカルテルにすべて制圧されたという。
帰国後、しばらくすると「俺は無事だけど、今自分がどこにいるか、何が起きたかは詳しくは言えない。大変なことが起きて、大勢の仲間が殺されてしまった」と知り合いの10代の兵士からメールが来た。
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<寄稿者プロフィール>
亀山亮/Ryo Kameyama
1976年生まれ、現在東京都八丈島在住。1996年より、メキシコ・チアバス州の先住民の権利獲得武装闘争や、中南米の紛争地帯で取材。
2000年にパレスチナ自治区でインティファーダ取材中にイスラエル国境警備隊が撃ったゴム弾で左目を失明。
2013年、アフリカ紛争地帯を撮影した写真集「AFRIKA WAR JOURNAL」(リトルモア)で第32回土門拳賞受賞。 IFJ・Japanフリーランスユニオン会員
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**この記事は、国際ジャーナリスト連盟(IFJ)東京フリーランスユニオン代表奥田良胤氏のご仲介で、SpeakUp Overseasにて掲載発表された。