ユリアン・ヴァッサーフーアの演奏を初めて聴いたとき、なんて優しいトランペットなんだろう、と感じた。実は、私は金管楽器があまり好きではない。金属管から送り出されてくる音が、曲想によってはキーンと脳に突き刺さるような鋭利さを伴うことがあるからだ。でも、ユリアンが吹くトランペットやフリューゲルホルンの音色は、放たれた瞬間に空気に溶けてしまうと感じるくらい、自然で柔らかい。メロウだけれどメランコリックにならず、明るい。その透明な美しさは、すっと私の中に入ってきた。 若きジャズのベテランたち ユリアンと、兄でピアニストのローマン・ワッサーフーアのデュオは、2000年代に入って「ヤング・ジャーマン・ジャズ」と呼ばれた若いジャズ奏者たちの中で頭角を現してきた。ユリアンは1987年、ローマンは1985年生まれ。現在2人ともまだ40歳前後の年齢だが、ミュージシャンとしてはすでに20年以上のキャリアがある。 ドイツ西部のヒュッケスヴァーゲンという小さな村で生まれ、音楽一家に育った兄弟の「ジャズ度」は、10代にしてすでに突出していた。2人ともケルン音楽大学で学び(ユリアンは16歳最年少で入学)、その後そろって米国バークリー音楽大学に留学。数々の国際コンクールで受賞して早くから注目を集める。 これと前後して、兄弟の才能を認めたドイツのジャズレーベルACTと契約、デビューアルバムRemember Chet (2006) をリリースしたとき、2人はまだ 17歳、20歳の若さだった。 やんちゃな雰囲気の弟も、ステージに上がると孤高のトランぺッターに変身。音色が柔らかく空気に溶けていく© Nikolas Müller Remember Chetは、ユリアンだけでなく、ジャズトランペット奏者なら誰でも敬愛するに違いない故チェット・ベイカーへのオマージュだ。このアルバムで兄弟はジャズのスタンダード曲を主にカバーし、高い技術レベルとジャズに対する感性の確かさを十分に証明したが、その後は、本領であるメロディー重視のオリジナル曲へと軸足を移していく。 耳に残る心地良いメロディーが、ユリアンの柔らかいトランペットで紡ぎ出され、ローマンがそれを受けて最善のコードでハーモニーを築き上げ、聴く者の心をひきつける。ドイツのメディアでは「魔法のような音色」(南ドイツ新聞)、「驚くほど異色」(ツァイト紙)と、そのオリジナリティが高く評価されている。 アルバムごとに変わるユニット 2人のキャリアは、兄弟ともに豊かな才能を備えている点でも、音楽の独創性の点でも比類ないものだが、アルバムごとに異なるユニットを編成する果敢さもまた、この兄弟ならではといえるだろう。ドイツを離れ、他国で録音したアルバムもある。たとえば、スウェーデンのヨーテボリで録音したのが、2枚目のUpgraded in Gotheburg (2009)だ。ACTのプロデューサー・ジギー・ロッホの提案だった。 ステージでは兄のローマンがバンドリーダーの役割を務め、トークも担当する。個性的なソリストたちを束ねるハーモニーの達人 © Nikolas Müller スウェーデンにはECMだけでなくACTのお抱えミュージシャンもわんさといるが、その中でもスター的存在のニルス・ランドグレンをプロデューサーに迎え、ラース・ダニエルソン(ベース)はじめ現地5人のトップクラス奏者たちと共演して、アルバムタイトル通りのグレードアップを果たした。ベテランたちのバックアップを得て、兄弟が安心して自分たちの音楽性を開花させた感がある一枚だ。 3枚目のGravity(2011)では、ドイツジャズ界の重鎮ドラマー、ヴォルフガング・ハフナーと組み、4枚目のRunning (2013) では初めてプロデュースを2人で担当、曲ごとにバイオリニストやシンガーもゲストに迎え、曲想をさらに広げた。続くLanded in Brooklyn (2016) はニューヨークで録音。サックスを加えた5人のユニットで、この街らしいダイナミックでいきのいいジャズを展開している。 “Landed in Brooklyn“(2017)。制作時、兄弟はまだ30歳そこそこだったが、気負いは微塵も感じられない。グルーヴ感あふれる一枚 © ACT Music&Vision 温もりを伝えるサウンド アルバムことに前身し、成長してきた兄弟デュオだが、一貫して2人の音楽の中核を成してきたのは、「ヴァッサーフーア色」ともいえる、ハーモニー重視で安定感のある、そして温もりのあるサウンドだ。それだけでなく、兄弟はピッチの速い曲でも決して暴走しないバランス感覚、そして誰とコラボしても自分たちの持ち味を失わない自負も備えているから、安心して聴いていられる。そして、いつまでも聴いていたい、と思わせる。 2018年に発表したRelaxin‘ in Irelandは、兄弟にとって転機となったアルバムといえるだろう。兄弟にチェリストのイェルク・ブリンクマンを加えたトリオ編成で、ライナーノーツの中でユリアンは、「ドラムスとベースを省くことで、より自由にハーモニー構成できるようになった」と語っている。 確かに、ユリアンのトランペットがリズムの枠組みなしに一層軽やかに歌っていて、アイルランドの自然に寄り添うような、リラックスしたジャズを展開している。最新作のSafe Place (2015)も再度このトリオでリリース。音楽へのひたむきな思いで結ばれた3人が、主旋律と伴奏の境界線をシームレスに行きかい共鳴しながら、音楽だからこそ到達できる「安全な場所」へとリスナーを招き入れてくれる。 これまでに3枚のアルバムを一緒にリリースした、チェリストのイェルク・ブリンクマンと © Nikolas Müller ライブでは兄が存在感を発揮 3月7日、ケルンのジャズクラブKing Georgで、兄弟のステージを観た。ローマンは、丸顔にさらに愛嬌を添える小さめのハットにジャケット、ユリアンは白いビッグシャツに白いスニーカーというスタイルで登場。クールなジャズメンというより、近所の気さくなジャズ兄さんたち、といった感じだ。 この日のユニットには、コロンビア出身のベーシスト、カミーロ・ヴィラ、そして東京在住のドラマー、デニス・フレーゼが参加。2人とも兄弟の長年の音楽仲間だ。これにゲストのサックス奏者を加えた5人によるステージは、ライブならではのインタープレイが会場を大いに沸かせて、心底楽しめた。 アルバムではトランペットのメロディーを無意識に追ってしまうが、ライブでは兄のローマンがバンドリーダーとして音を束ね、ピアノソロでは大柄の身体をゆする表情豊かな演奏で、むしろ大きな存在感を発揮していた。そして、弟ユリアンが兄や仲間たちに囲まれて、安心して旋律の翼を開いている。そんな印象を受けた。このメンバーで次のアルバムTimelinesを制作中だ。兄弟はSafe Placeをいったん離れ、さらに音楽の旅を進めている。 最新作の“Safe Place“(2025)。「『安全な場所』は、実在する場所や人物ではなく、音楽に深く身を浸すところに現れる」と兄弟は言う © ACT Music&Vision 安らぎの音楽空間に身を委ねる 20世紀中盤、世界中のジャズクラブは紫煙で曇り、ウィスキーグラスの触れあう音が即興演奏にまぎれ、ドラッグとも無縁ではない不健康な空間だった。そこで演奏していたミュージシャンたちも、観客も、西側世界の上昇志向ムードの中で、暗く深いジャズの闇に溺れることができたのだろう。ビル・エヴァンスやチェット・ベイカーといった往年のジャズ大御所たちは、生涯ドラッグとの縁が切れず、退廃のリリシズムさえ発散していた。 時代は移り、21世紀のジャズメンはマインドセットも一変している。戸外の陽光とスニーカーが似合うヴァッサーフーア兄弟のジャズは、ポジティブで歪み(ひずみ)がない。彼らは聴く者に「あなたの安全な場所はどこ?」と問いかけ、私はいざなわれるまま、その温かく明るい音楽空間に心を休める。意識していなかったが、それは不穏で先行き不透明な時代ならではの、音楽との付き合い方なのかもしれない。