フェイクニュース、陰謀論、ディスインフォメーション、「オルタナティブな真実」…。今日、多くの人が情報源の信憑性を確認することなく、根拠のない報道を信じて混乱しがちだ。恐ろしいのは、フェイク情報がアルゴリズムの運用などで拡散されると、それを信じる人が大多数になり、真実が二の次にされかねない点である。事実に即した、公正で良心的な情報は存在感を失いつつあるのだろうか。 信頼できる情報の発信に徹する そんな思いを抱かせる現在のメディア環境の中で、徹底的に史実に基づいた、クオリティの高い情報を、マスメディアからソーシャルメディアまでの各層にわたって、またオフラインのイベントも併せて多角的に展開し、市民から絶対の信頼を得ている団体がドイツにある。「連邦政治教育センター」(Bundeszentrale für politische Bildung、以下BPB)という組織だ。 あらゆる社会集団が対象 「連邦政治教育センター」。どこかの国なら政治犯の更生を目的とする施設のような組織名だが、ドイツではそうではない。 英語名でFederal Agency for civic education、つまり「連邦市民教育機関」とされている通り、この国に住む市民が政治全般についての理解を深め、また自らも政治に参加する意欲を高めることを目的に活動する団体だ。前回紹介した連邦憲法擁護庁と同様に内務省が管轄し、ドイツを中心に世界中の政治体制や時事問題について情報を提供している。BPBの活動は、多様性と言論の自由を尊重する民主主義的思考を市民の中に培う上で、重要な役割を果たしている。 「BPBはあらゆる社会集団をターゲットに、政治情報と教育プログラムを提供しています。各プログラムはできるだけ具体的に、対象グループそれぞれの関心や教育ニーズに合わせて開発されたものです」とBPB広報は説明する。情報提供に際しては、信頼できる情報源だけを出典とし、またコンテンツごとにそれを開示している。 さまざまなチャンネルで活動を展開するBPBだが、中でも中心的な役割を果たしているのはホームページだ。あらゆる年齢層のドイツ語話者が利用し、月間平均300万回のアクセス数を誇る。 充実のホームページ HPのコンテンツは「政治」「歴史」「国際」の3分野に大別され、それぞれに関連情報がどっさり用意されている。 たとえば「政治」の下には「民主主義と選挙」「過激主義と過激化」「外交と安全保障」「経済と環境」「メディアとデジタル化」など8項目が、「歴史」では、「第一次世界大戦とワイマール共和国」「国家社会主義と第二次世界大戦」「ホロコースト」「東西冷戦」「ドイツ統一」「記憶とその再評価」など12項目がサブテーマとして格納されている。各項目の下にはさらに細かくコンテンツが分類され、読む人のニーズに応じてフィルターをかけ、ピンポイントで情報を得ることができる。私も記事を書く際、頼りになるリファレンスとしてよく利用している。 記事だけでも充実度に圧倒されるのだが、ほかにメディアテーク、ビデオやポッドキャスト、講演集、統計、分野ごとの辞書類なども揃っており、ユーザーには無限にも感じられるボリュームだ。識者が執筆構成した内容のクオリティと洗練されたデザインが素晴らしく、こうした趣旨のサイトとしては世界でもトップレベルと評されている。 有権者の自己診断ツール「選挙自販機」 ウェブコンテンツの中で、特に若い世代の人気を集めているのが“Wahl-O-Mat“だ。Wahlはドイツ語で「選挙」を意味する。O-Matには「自動装置」のニュアンスがあり、意訳すれば「選挙診断器」なるツールである。 「選挙診断器」は、連邦や州などの議会選挙の前に市民が利用し、どの政党の立場が自分のそれと最も近いかを分析してくれる質疑応答ツールだ。内政、外交、軍備や環境保護などの各分野について、政党名は伏せたまま、各党が公式表明している政策を要約した短文が提示され、回答者は「賛成」「反対」「どちらともいえない」「このテーマをスキップ」の中から選んでこれに回答する。 「選挙診断器」トップページ。今年2月の連邦議会選挙向けにアップされた。© bpb 選挙診断器のワークショップ。若い有権者に人気がある。© Niedersächsische Landeszentrale für politische Bildung/bpb, Fotografin: China Hopson 設問への回答が終わると、各党の政策と自分の意見の一致度が表示される。© bpb/BILDKRAFTWERK/Zöhre Kurc 30以上ある設問にゲーム感覚で次々と答えていくと、最後に回答が集計、分析されて、各党に対する個人的な同意レベルが算出される。私も試しに使ってみたが、設問も操作もわかりやすい。回答を決めることで、自分自身の意見も明確になり、それだけでも政治意識が高まる。「選挙診断器」には、若い有権者も含めた30人の識者が編集に参加しただけあって、よく作り込まれていると感じた。 昨年6月の欧州議会選挙では、選挙の約1カ月前から「診断器」を公開、利用回数は1000万回を超え、2019年の同選挙(980万回)の利用記録を新たに更新した。2002年のツール導入以来、累計1億2500万回も使われている。この原稿を書いている現在は、25年2月のドイツ連邦議会選挙の「診断器」がスタートしている。 ソーシャルメディアに特化したプログラムも また、ソーシャルメディアを主な情報源とする人が増えてきた近年、BPBではこのグループに特化したプログラムも充実させてきた。彼らにはウェブなど従来のチャンネルで到達することが難しいため、フェイスブック、インスタグラム、X/Twitter、YouTubeなどのメッセンジャーサービス、アプリ、ゲーム、ストリーミングプラットフォームなどを駆使して働きかけている。 「彼らの消費傾向や余暇の過ごし方に即してプログラムを開発し、そのエンターテインメント志向に合う動画などの形でプログラムを提供します」とBPB。ソーシャルメディアであっても、事実に基づく学識的知見と具体的なデータを活用するという活動原則は、ここでも貫かれている。必要に応じてプロジェクト完了後に成果を分析評価し、アプローチの改善に反映させることもあるという。 たとえば、2022年にYouTube で配信された「コールスピラシー(“Callspiracy“)」というコンテンツは、ターゲット集団を絞り込んで効果を上げた好例だ。コールスピラシーは「電話」と「陰謀」をかけた造語で、陰謀論をテーマとする議論を奨励する意図で制作された。モデレーター、アドバイザー、ゲストの3人が電話を前に座り、陰謀論者を近親者にもつ市民からの電話相談にその場で応じる。本人ではなく陰謀論者の言動に悩む家族を対象にした点がオリジナルで、陰謀論そのものの是非を問うことなく、距離を置いてシチュエーションを中立的に提示することで、視聴者が陰謀論を批判的に問い直すことを促している。動画メディアらしく、若い出演者、テンポの速い会話、ポップなスタジオデザインが印象的だ。 中立を貫き、市民の政治意識を高める BPBは、その前身である「連邦祖国奉仕センター」の1952年の開設から今年で73年目になる、伝統ある団体だ。1963年に現在名に改称された。ボンを本部とし、東西ドイツ統一後の91年にはベルリンに、2021年には東独チューリンゲン州のゲーラに支部を開設している。3拠点合計で約300人の職員が勤務しており、内務省の予算から年間約1億ユーロ(約160億円、23年実績)が拠出されている。 ドイツでは政治教育の基礎として、1976年の「ボイテルスバッハ合意」が今日でも採用されている。同合意は当時の政治教育学者たちによって策定され、「威圧を禁ずる」「授業で相反する立場を公平に紹介する」「生徒自身が政治において自分の関心を分析する能力を培う」を3原則としたものだ。 つまり、教師は生徒を「教化」せず、異なる立場について教師の主観を交えず公平に提示した上で、生徒自身の判断を待つという立場だ。BPBもこの原則に基づき、中立性、客観性を保つことに重きを置いている。市民が政治問題に関心を持ったとき、事実に即した情報をさまざまな切り口で提供するのがBPBの役割だ。 「私たちの使命は、市民が政治的判断力を身につけることにあります。そのためのオープンな議論を促進したいのです。これは全員一致で合意するという意味ではありません」とBPB。どんなテーマであれ、あくまで市民が自分で考えて判断する能力を培うという立場に徹しているわけだ。 各地の拠点では情報提供だけでなく、対話イベントも活発に行われている。© Engagement Global / Sarah Larissa Heuser メディアセンター内部。明るく落ち着いた雰囲気で思わず入ってみたくなる。© bpb デジタル情報だけでなく、いろいろな分野をカバーする印刷物も豊富だ。© Engagement Global / Sarah Larissa Heuser 基本法ブックレットを無料配布 デジタルメディアと並んで、BPBでは印刷物の出版にも引き続き積極的だ。サイトショップなどを通じて、さまざまな分野の書籍やレポートを入手することができる。しかも、その多くが無料である。たとえばドイツの憲法にあたる「基本法」全文のブックレットは、BPBから学校に送られて全生徒に無料配布される。社会科や政治経済を教える教師たちもニーズに応じて、同センター発行の教材を取り寄せて授業に活用する。 基本法ブックレットは、成人していても請求すれば自宅に無料送付してくれる。私も一冊入手したが、日本では憲法全文を手元に置いている人が市民の中にどれくらいいるだろうか、と考えた。日本では、ダウンロードデータを除けば、憲法全文の印刷物は民間の出版社が有料販売するものしかないようだ。 BPBはまた、全国各地で毎週のようにさまざまなイベントやプロジェクトを催し、市民と直接協働するアクティブな団体でもある。ソーシャルメディアでは難しい、リアルタイムでの双方向の対話が、オフラインのイベントで実現している。市民との対話や交流という目的においては対面形式のほうが効果が大きく、その需要も数年前から高まっているという。 「毎日新たな創造性を求められる」 表舞台に出ることは少ないが、着実に、継続的に市民教育という使命を果たし続けているBPB。総長のトーマス・クリューガー氏は、24年4月にドイツ連邦共和国創設75周年の記念イベントの中で、現在ドイツで極右思想が若い支持者を増やしていることに触れ、こう語った。 東独出身。ドイツ統一を契機に牧師から政界に転身。政治、社会、文化教育の第一人者として2000年から政治教育センターの総長を務めている。 Thomas Krüger, Am Checkpoint Charly. Berlin Februar 2022 「民主主義の教育者である私たちが(この現象に対して)勝ち目のない闘いに挑んでいるのではと疑う人もいる。でも、私はむしろ、これが継続的な挑戦を求められる果てしない、骨折り仕事であると考えている。私たちは効果的な対処法を開発し、知見を明確化するために、ほぼ毎日新たに創造性を求められている」 そう、教育は息の長い営みだ。知恵と時間を求められる地味な活動の積み重ねによってしか、後年の成果が表れない。中立的な知見や情報を常に発信していること、市民に働きかけること、対話を続けること。それは、民主主義を健全に保つための営みそのものだ。日本でも政治教育に対する意識がもっと高まり、継続的で創造的な取り組みが増えていくことを願っている。 参考サイト: BPB サイトBundeszentrale für politische Bildung | Startseite | bpb.de„Wahl-O-Mat“ サイトWahl-O-Mat | bpb.de