中東では、改めてイスラエルとパレスチナの紛争が激化し、西側リーダーとアラブ世界、国際世論の求める方向が複雑な動きを見せている。前編では、2018年、旧屠殺場跡地にできたデュッセルドルフ応用科学大学の新キャンパスの中に建つユダヤ人被害者追悼施設と、そこで行われている歴史イベントに参加した時の筆者の経験を綴った。さて、ドイツでは、若者はナチス・ドイツによるホロコーストとどのように向き合っているのだろう。
Z世代は、ナチスの歴史に高い関心
ところで、大学のまっただなかにユダヤ人被害者追悼施設があるというのは、ある意味、納得できることかもしれない。ドイツのビーレフェルト大学が2023年2月に発表した調査「Memo Youth Study」によれば、ドイツではいわゆるZ世代の若者たちが、ナチス時代と第二次世界大戦の歴史について高い関心を持っていることが明らかになっている。
ドイツには負の歴史を忘れず、その反省の上に社会を築こうとするいわゆる「想起の文化」があり、ナチスと大戦の歴史は、ドイツの若者にとってはその原点となっている。この調査はビーレフェルト大学に所属する紛争・暴力ついての学術研究所が、ドイツに住む16〜25歳の4,000人以上の若者を対象に行ったものだ。
その結果によると、ナチス政権の時代が歴史的に特に重要だと答えた若者は全体の82%を占めた。さらにこの時代に真剣に向き合ったことがあると答えた若者は63%に上った。これはドイツ人全年齢層平均より10%以上高い。この事実を伝える新聞記事は「ナチス時代への驚くべき関心の高さ― 若者たちはドイツの過去との徹底的な対決を求めている」という見出しをつけて報じた。
ドイツでは、過去に対する態度において、教育の果たす役割、なかんずくナチスの歴史の学びが大きい。それは68年以降、ドイツでは標準化していることだが、Z世代にとりわけ対決姿勢が強いというのは、ソーシャルメディアを自由に使いこなし、自己発信が容易で、コミュニケーションに対して開かれているというこのデジタル・ネイティヴ世代のポジティブな特徴と関連性がありそうだ。
強制労働をさせられた人々への補償のために設立された財団「記憶・責任・未来」理事長は、この記事の中で、「ドイツの若者たちは(歴史を)娯楽の対象としていない。理解し、実際に現場を訪れ、今日的な意味を見出そうとしている」と述べている。
満蒙開拓平和記念館にて
この原稿を読んでくださっている読者は、長野県阿智村にある満蒙開拓平和記念館をご存じだろうか。ここもドイツのユダヤ人追悼施設のように、満蒙開拓という歴史を記録し、歴史の犠牲となった人々を追悼する施設である。
筆者は4年ほど前、ドイツと日本の引き揚げ者についてのシンポジウム開催のお手伝いをしたことがある。2023年7月、一時帰国中だった私は、ジャーナリストのエイミ・ツジモトさんによる「来民(くたみ)開拓団の惨劇から問う 国策と差別」という講演会があったので、訪ねて行った。参加者は中高年が過半数を占めていたが、この記念館を支えるピースラボというボランティア・グループには、若い人たちもいるようだ。
講演会後、そのメンバーと懇談をする機会があり、ボランティアに来ている人たちの自己紹介で、なぜこの記念館と関わるようになったか、なぜこの「満蒙開拓」という歴史に興味をもったのかが語られた。年齢も住む地域も生活のバックグラウンドも、実に多様な人たちが、この一点につながり、力を合わせて、社会に、次世代に発信していく。私が80年の時を越えて、公文の生徒の祖父が横浜でユダヤ人救援活動で中心的な役割を果たしていたと知ったという、この小さなつなぎ目から、上海に逃げた一人のユダヤ人の男性に興味をもったように、彼らもなんらかのつなぎ目から満蒙の歴史につらなっている。そのつらなるということの意味をあらためて考えさせられた。
単線の直線的時間から網の目の円環的時間へ
結節点 がさまざまにつながっていくと、世界の歴史は網の目のように張り巡らされて見えてくる。実はヨーロッパ人の歴史観は単線的 、直線的構造を持っていると言われる。それは、歴史がキリスト教の最後の審判に向かって進んでいくという宗教的世界観によるところが大きい。
それに対して東アジアでは、仏教に端を発する因果論が支配的である。すべての物事には原因と結果があり、そのすべては時空を超えて密につながっている。だれしもこの因果の法則をまぬかれることはできない。これは仏教の教えではあるが、よく考えてみると普遍の真理である。
たとえば、これを書いているパソコンはどこから来たのか。店で買って私の手元に来た。そのパソコンを製造した会社、その会社で働いている人々、それを販売している会社、そこで働いている人々、物流に携わる人々がいて初めて、パソコンは私に到達することが可能になる。その人間一人ひとりは、それぞれの親から生まれており、その親がどのように結びついて、新しい生命が誕生したか。こういうことを数え上げていくときりがない。
つまり、過去のさまざまな物事は、どれ一つとして独立した存在ではない。
つまり、過去のさまざまな物事は、どれ一つとして独立した存在ではない。網の目のようなつながりは、また最後に自分のところに還ってくる。円環的時間とは、すべての物事が自分と関係ある時間である。この事実を原点に据えて、歴史を顧みる時、私たちには、今の私たちにつらなる新しい姿が見えてくるのではないだろうか。
ユダヤ人差別も、満蒙開拓も、マイノリティが世の中から排除され、あらゆる種類の暴力にさらされた歴史である。一見すれば、今の自分とはかけ離れているように見えても、実はそこに自分と無関係なものは一つもない。
つまり、私たちはその暴力と無縁ではなく、それを未来において防ぐ責務がある。私たちが歴史を学ぶ意味は、私たちの日ごろの行動の原動力となる。ドイツと日本と、そこに連なり、さらに地球社会全般に広がっていく私たちは、悠久の歴史という大河の中で今この自分の持ち場で果たすべき未来への責任を痛感するのである。
<初出:ドイツに暮らす⑬ 『現代の理論』2023年秋号掲載。許可を得て、加筆・修正の上、転載>