ドイツには「ドイツ倫理評議会」(Der deutsche Ethikrat)という組織があって、ドイツ社会に強い影響力を持っている。
冒頭写真はどこかの高校の授業風景だろうか。いや、倫理評議会から評議員が参加してのディベートの様子だ。
各界の第一人者が時事問題を議論
同評議会は政府の外郭団体であり、同時に、「倫理評議会法」に定められた職務だけを果たす目的をもつ独立組織である。連邦政府と連邦議会が半数ずつ推挙する26人の評議員で構成され、そのメンバーは、哲学者、科学者、法学者、神学者、経済学者など各学会の第一人者たちだ。中立性を保つため、評議員が連邦議会や州議会の議員を兼務することは禁じられており、評議員のひとりひとりが相互に干渉されることなく意見を交換する。現在の議長は医療倫理学教授のアレーナ・ブイクス氏(45)が務めている。
評議員は月に一度ベルリンに集い、その時点でドイツ社会で議論が必要とされる倫理的テーマについて、異なる学術的視点から議論する。テーマは評議会自身が選択する場合もあり、また連邦政府が評議会に依頼する場合もある。協議結果は政府に提言され、また報告書として一般にも公開される。
また、ベルリンを中心に、さまざまな対象者に向かって、倫理的テーマについての公開フォーラムや公開セミナーなどを多数開催している。
「脱原発」の強力な指針として
倫理評議会は、2011年に当時のメルケル政権が脱原発を決めた際にも、この問題を倫理的側面から議論し、政府に提言を行った。「原発事故が起こったと想定して、地域や被害者の救済のために巨額の費用を投じるなら、それを再生可能エネルギー事業の促進に向けるべきである」という趣旨だった。そのことが与党内合意と連邦議会での原子力法改正案可決を加速し、ドイツの脱原発を決定的なものにした。
その他にも、着床前診断の是非、近親相姦は受容できるのか、気候変動に関する人間の責任など、多様なテーマに果敢に取り組んでいる。直近では人工知能と人間の共生、医療データ共有と個人情報保護の両立といったテーマが論じられ、常に非常に今日的である。
倫理評議会は日本では「ドイツ倫理委員会」という訳語が定着しているようだが、原語はKomiteeではなくRatであり、「評議会」または「審議会」が妥当ではないかと思う。
「何が正しいのか」を真正面から考える
ドイツ倫理評議会は、自らの役割を以下のように説明している(同ウェブサイトから拙訳)。
倫理評議会は、様々な問いに取り組んでいます。
何が正しくて、何が間違っているのか。
私たちは社会の中でどのように共存していけばいいのか?
科学者はどこまで研究することが許されるのか?
その限界はどこにあるのか?
医師は何をすることが、また、何をしないことが許されるのか。
私たちが持っている法律は良いものだろうか?
それとも、他の法律が必要なのか?
倫理評議会には多くの任務があります。
それは、次のようなものです。
こうした疑問について、ドイツの市民に語りかけること。
それについて考え、他の人と話すように彼らを鼓舞すること。
政治家や政府に提案すること。
他の国の倫理評議会と協働すること。
倫理評議会は毎年報告書を作成しています。
報告書は、連邦議会と連邦政府に送付されます。
報告書にはこう書かれています。
「倫理委員会は、このような活動をしました。
倫理委員会はこうした問題について論考しました。
今、社会はこの問題についてこう考え、こう話しています」。
加速する毎日、揺らぐ価値観
私が倫理評議会の存在をしっかりと認識するようになったのは、2020年に世界中で新型コロナウィルス感染が爆発していた時期だった。倫理評議会はこの時期、ドイツでの感染拡大防止のための各種行動規制やワクチン接種の優先順位などについて、次々と協議しては報告書を発表していた。時事性が高いことから、その結果はメディアでも大きく報道されて、私も関心を向けるようになったのだ。協議結果はもちろんだが、まず「倫理評議会」という大真面目な名称に驚き、また、この組織が大きな発言力を持っていることに強い印象を受けた。
なぜなら私は日頃から、私たちの生きている時代に倫理について考え、話し合うことが、あまりにも稀になったと感じていたからだ。デジタル化で、仕事でもプライベートでも生活が加速し、複雑になり、私たちのひとりひとりが、そこからなんとかスピンアウトしないように、来る球をひたすら打ち返している感じがある。だから、自分の内面に目を向けることは少なく、自分が依って立つところの価値観が揺らぎがちだ。立ち止まって、ものごとの判断基準をじっくり考えることを忘れている。というより、心の余裕がないので、意識的に考えることを避けている。
ドイツ倫理評議会は、そこに待ったをかける。いくら忙しくても、人間本来のあるべき姿に立ち返り、何が「良い」ことで、人の道にかなっているのか、人間の未来を希望に満ちた明るいものにするためには、社会がいま、どんな選択をするべきなのか。それを真正面から、根底から議論しようとする。それが政府の諮問機関として機能している。ドイツ社会は評議会を羅針盤として意見を交換し、議論を進め、思考を深化させる。こうした仕組みがきちんと機能していることに、深い安堵を覚えるのだ。
Z世代のための倫理
このシリーズは、Z世代に少しでもうまくバトンを渡すために、欧州でのベストプラクティスを紹介するのが趣旨である。これまで主に、気候変動への対処という視点から、さまざまな動きを報告してきた。しかし、次世代のための私たちの貢献は、気候変動の分野だけではなく、犯罪を減らすこと、経済格差を縮めること、腐敗や汚職をなくすことなど、他のフィールドにも求められている。その基本は、むしろ人間について、社会について、徹底的に考えることであるはずだ。
じっくり考え、結論を導き出し、これを行動に結び付けていく際に、倫理は強靭な力となる。根底に倫理があれば、私たちの行動は義務感や危機感だけにかられたものでなく、説得性、自発性をもつものになる。行動のプロセス自体が、健やかな土壌となって、明日からでも私たちの身体と心をスローダウンし、少しずつ社会全体の変革を実現していける。私はそう考える。
人間の哲学的考察は、倫理=「善」だけでなく「真」や「美」の分野も対象になるが、真や美の基準を一元化することは、とても難しい。でも、倫理で導き出せる「善」なら、少なくとも万人が歩み寄れる最大公約数を抽出していくことはできるだろう。その基本は、自分と同じように他者を尊重すること、故意に他者を傷つけないこと、殺さないことであるはずだ。21世紀の今になって勝手に侵略戦争を始めた国があるという事実だけでも、国際社会の倫理が急激に脆弱化していることを示しているのでは、と感じる。
日本での取り組みは?
私がリサーチしたところ、ドイツの倫理評議会にあたる組織は、日本にはないようだ。評議会は他国の同様の団体とも活発に交流しているが、私が取材したところ、日本との二国間活動はない、という回答だった。
また、日本で倫理上の是非を問う議論が発生するのは、医療行為の分野に限定されがちである。「日本エシカル推進協議会」という社団法人組織もあるが、同組織は持続可能性を倫理的側面から定義するというアプローチを取っている。ドイツのように、倫理という上位概念をもって、現代社会の諸問題を、それも政府の委託を受けて議論し提言を行うものではない。ドイツと同様、時事問題の全分野について中立的に議論し、社会に働きかける組織が、いつか日本でも政府主導で開設されることを望む。
最後に、ドイツ倫理評議会が「倫理」をどのように説明しているかを紹介したい(拙訳)。
倫理(Ethik)は、重い言葉でもあります。
この言葉はギリシャ語です。
こんな風に訳すことができます。
良い行いをする作法を知っていること。
倫理の課題は、ルールを作ることです。
すべての人に適用されるルールです。
このルールは、人々を助けてくれます。
安心感を与えてくれます。
ルールがあれば、誰もがより良い判断ができるようになります。
何が良くて、何が悪いのか。
何が正しくて、何が間違っているのか。
そして、誰もが分かるようになります。
こう振る舞うと、こうなる。
これは禁じられていて、これは許されている。
小学生にもわかる平易な、しかし、心に響く言葉だと思う。