今回は、上智大学国際関係法学科教授、岡部みどり先生にご寄稿いただいた。先生のご専門は、世界の移民難民政策と地域統合。新型コロナ禍で、ご自宅でオンライン授業に苦労されながら、まだ小さなお子さんとともに、配偶者の方とは、海を隔てた別々の国で封鎖生活を送っておられる。そんな岡部先生に今の思いを綴っていただいた。
<トップ写真:北欧州に春を告げるブルーベルの森。例年4月には来訪者であふれる森も、外出規制のある今年は人影がなく、一際深い青さが印象的だったという>©Taz
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はじめに―「ニュー・ノーマル」の絶対条件
新型肺炎(COVID-19)の恐ろしさは、感染症だということだけでなく、どんなプロセスで重篤化するか、どんな人が重篤化するか、そして、仮に軽症で済んだ人でもその後の健康にどのような影響が及ぶかが分からないことだ。「人どうしの接触を避ける」という究極の対策を取らなければならない理由はそこにある。そして、まさにこのことが、いま、人間社会が克服すべき大きな課題となっている。人間は本来、他人と接触しなければ生きていけない。仮に自給自足の生活をどんなに徹底的に追求しようとしても、完全に孤独な生活は難しい。ましてや普通の人なら、食糧の買い出しからゴミ出しまで、人の手を借りずに済ませることなど到底不可能だろう。そして、社会生活を豊かにしようとすればするほど、オンラインのネットワークだけでなく人の力にどうしても頼らざるを得ないのだ。
このような、社会的な連帯を保ちながら人との距離を置くハイブリッドな生活を「ニュー・ノーマル」と呼ぶのならば、それを成り立たせるための絶対条件は人への信頼だと思う。国や自治体が法律を作ったり罰則規定を設けたりすることは重要だが、それだけでは足りない。道徳や倫理的な価値観に基づいて人がお互いを思いやる行動をする、という文化的土台があって初めて社会は安定する。そして、安定した社会を作るために一人一人の行動が大切だという意識を自ら強く持っている人がどの程度いるか、ということが、人への信頼の度合いと関わってくるのだと思う。
筆者は社会科学(国際関係論)を専門としているが、仕事の上では、持論は常に明確な論拠を伴うものでなければならない。しかし、今回は、この機会に敢えて普段は書けないようなものを書くことをお許しいただきたく思う。実のところ、文化や人間性といったものがどのように国際関係に関係しているか、ということについて常日頃書きたいと思っていた。論拠は筆者の主観を超えるものとはならないが、いわば感覚の次元で大切だと思っていることを綴ってみたい。
信頼重視―日本社会の静かな変化
今度の災禍は、筆者にとって、人々が互いに信頼すること、また協調することの重要性を改めて考えるきっかけとなった。他人の信頼を得るには、まず、人はルールに忠実でなければならないだろう。多くの人々は、新型肺炎の脅威から身を守るために既存のルールが必要だと考えている。だからこそ、明確な罰則規定がなくとも人々はルールを遵守するとともに、ルールを守ろうとしない人や発言に対しては距離を置き、ときには厳しく糾弾する(過度の叱責が称賛されるべきでないのはもちろんだが)。しかし、ルールに忠実でならなければならないのは何も一般の人だけではない。ルールを形成する側も、的確なルールを作ることに専念しなければならない。そうでなければ、人々は政治家の国家運営能力に疑問を抱くだろう。いま日本で起こっているのはこの二つの「信頼獲得へのプロセス」である。そして、前者、即ち出来上がったルールへの遵守能力の高さに比べて、後者、即ちルール形成者に正確な情報把握に基づいた適切なルール形成能力があるかどうか、という批判的な観察能力が、これまでの日本人には欠けていた。しかし、「お上のお達し」には従順であった日本人がここに来て変わろうとしている。果たして日本政府は本当に我々の命を救おうとしてくれているのか、という人々の疑念がますます膨れ上がっている。そして、それが結果として政府のコロナ対策の進展を促している。
これは、いままでになかった日本の変化であるように思える。特徴的なのは、いわゆる大手マスコミ(以下「マスコミ」)の主導に人々が従う形での変化ではない、ということである。確かにマスコミによる連日の政府批判が止む気配はない。しかし、それに呼応した国民の声を政府が吸い上げてコロナ対策が進展しているということでもないようだ。そこには、多数のニーズに政府がより適切に対応できるような変化の道筋が見て取れる。この背景には、オンライン化が進んだことによる人々の間の心理的距離が縮まったこと、そして、マスコミの人々も含め、多くの人々がコロナ禍の当事者となったという事情がある。
これまで、マスコミが標榜するところの「国民の声」は必ずしも多数の国民の意思を反映したものではなかった。このことは、経済学者オルソンが1960年代に唱えた「集合行為(collective action)」として説明できる。複数の政策(選択肢)への優先順位が散漫になりがちな多数集団、即ち一般の人々に比べて、少数集団の要望は明確であり、したがって共通の利益が達成されやすい。つまり、マスコミが取り上げる「みなさんの意見」は声の大きな人(集団)の意見であり、それが本当に一般の人々の要望にかなっているかどうかということには、別途検討が必要だということである。そして、日本のマスコミはその検討をしなかった。それゆえ、少なくとも日本社会においては、マスコミと一般の人々との距離は次第に大きくなっていたように思える。テレビ離れ、(新聞などの)活字離れとは、ワカモノの知力低下の問題ではなく、むしろ既存メディアに人々がどの程度信頼を寄せているかという問題だったのだ。
しかし、コロナ禍は、皮肉にもそういった状況が改善される機会となった。オンライン会議やウェビナーは人々が意見を表明するハードルを下げた。とりわけ、公の場で積極的に発言することに躊躇する日本人にとって、チャットなどのツールは助け舟となった。また、この感染症が老若男女、貧富の区別なく全ての人にとって脅威であるため、より多くの人にとって有用となる情報が求められるようになった。取材や企画に当たる人々も、「上がってくる声」にだけ耳を傾けるのではなく、自らにも役立つ情報を入手しようとするようになった。
「一部の大きな声=多数の声」とするこれまでの風潮が廃れはじめてきたことは、政治リーダーシップのあり方に変化が生じてきていることからも明らかだ。安倍首相のリーダーシップがここのところ成功していないのは、PCR検査数を絞っているからでも、マスクの配布プログラムがお粗末だったからでもなく、本質的には、首相の心が国民に寄り添っていないからだ。野党への国民の支持が芳しくないのも同じ理由だ。コロナの影響が日増しに深刻になっていった時期、野党は、国民から見れば的外れな批判を繰り返していた。代わりに、国民が信頼を寄せはじめているのは地方政府のリーダーたちである。もちろん、47都道府県知事が総じて誉められるべき対策を講じているわけではないし、ある時点で正しいと思われた政策が間違っていた、ということもある。しかし、重要なことは、地方自治体のリーダーは人々の生活の不安に真摯に向き合い、対策を考えている。その姿に国民が応えはじめている、というのが現状だろう。国民が注目しているのは政治の結果というよりは、むしろ、そのプロセスなのだ。
「ニュー・ノーマル」ライフの弊害―情報の解釈・評価をめぐる国際問題
このように、「ニュー・ノーマル」な生活は、人々の物理的距離を遠ざけるが、社会的な距離を縮める。いままで届かなかった一般人の声が、世界に届くようになる。もしこの傾向が続くのであれば、それは良い変化につながると思う。
しかし、その反面、物理的な人的交流がない、ということには当然弊害もある。嘘の情報が蔓延することは容易に想定できるが、場合によっては、情報の解釈に関わる問題の方がより深刻なのではないかとも考える。政府による様々な政策−感染症検査や緊急事態宣言(解除)の実施やそのタイミング−をいったいどのように評価すればよいか、という問題である。ここで、筆者が特に憂慮するのは、日本の政治や政策の世界レベルでの評価である。国際的な評価を気にする必要はない、という声もあるかもしれない。しかし、ときとして、国際的な世論が国内の政治経済社会的発展に影響を及ぼすこともある。したがって、そもそも「国際社会の声」が果たしてどのように形成されるのか、ということについて思いを馳せることも意味があるのではないかと思った次第である。
海外の事例に学ぶことは重要だが、それが日本社会にどのように有効なのかを十分に検討することも大切なプロセスであるはずだ。これについて、元来、日本人はいわゆる「外国文化」をうまく日本風に取り込むことが得意であったはずなのだが、どうも最近はこれに苦慮しているような印象を受ける。これは、何もコロナ禍のいまに限ったことではない。海外の知見を日本経済や社会の前進につなげる、という良質なサイクルが、ここ数十年の間どうも生まれていないような気がするのである。
これからは「影響力」の時代ー同情にうったえる日本モデルは通用しない
そのひとつの理由に、現代が良くも悪くも情報戦争の時代であるということが関係しているように思う。現代では、国家のイメージ戦略に成功することが国のパワーの増強につながるという考え方が支配的である。通貨の信用度、貿易収支、GDPなど、国の規模を図る指数は数多にあるが、必ずしもそれが国のパワーの源になるわけではない。とりわけ現代においては、「影響力」−その国における政治、経済、社会、文化などの領域でのパフォーマンスやスタイルなどが他国の変化をどの程度促すかという力−がますます重要になってきている。
一方で、日本では未だに「同情力」への信奉が厚い。例えば、マスコミは、日本社会の問題点、悪いところや改善すべき点を積極的に海外に発信し、海外諸国から共感(というよりは同情)を得ようとする。実際、その戦略はうまくいっていない。日本社会が例外的に改善すべき社会であるとして咎められさえする。日本には自分に厳しい人が多く、また、自分自身を誉めるということに美徳を感じない人が多いため、「更なる精進」を意識した情報発信になることは致し方ないのかもしれない。しかし、自虐的になることは対外関係において少しも利点にならないことを、マスコミは重々自戒すべきだ。確かに、日本には改善すべき点がまだまだたくさんある。しかし、一般の日本国民が悪いのではない。最も深刻な日本の問題は、既得権益層が革新的な技術や考え方を重用しないことのように思える。そして、その既得権益層は政治家集団だけでなく、それを批判するマスコミや企業の内部にも存在している。
なかでも、マスメディアの責任は重いし、これから先もますますその役割は重要視されるようになるだろう。特に海外への発信という点において、これまでのやり方は、必ずしも誉められたものではない。自虐的になるか、その反対に「日本は凄い」という自画自賛番組で終わるか、はたまた日本人vs.外国人という対立をショー・ビジネスがてらに演出するかのどれかであるように思う。そこに、日本社会の良さ、あるいは改善点を掘り下げ、日本自体を多面的に理解しようとする真摯な姿勢はみられない。それを克服しない限り、他国に影響を与える存在には到底なり得ないだろう。
影響力とは、徹底的な自省から生まれるものだと思う。「こうやってみたらうまくいった」という成功例を発信することはもちろん重要だが、それだけでは不十分だ。他国の共感を得て、他国を巻き込むような行動力があってはじめて影響力が生まれる。しかし、自国の立ち位置がしっかりしていなければ、反対に他国に取り込まれてしまう。
自国の立ち位置をしっかり定めるために必要なのは、他国との適切な比較に基づく自省だ。他の国で行われている政治や政策の一部をその国の政治や社会構造と切り離して抜き取って、日本より良い、悪い、と言ってみても無意味だ。しかし、日本だけでなく海外のマスメディアによる日本批判も、そのような表層的な評価にとどまっている。これは極めて率直な感想である。
もっとも、だからといっていまの日本がそのままでよい、とは微塵も思わない。安易な日本批判を嫌う人たちの中には現状維持によって利益を得ようとしている人もいるということは、これまた憂慮すべき事柄である。現状は決して良いものではない。その理由は、日本の中に存在する有用な情報を権力者が反故にしているからである。実直に生きている人々に、政府が、企業が、マスコミが真面目に耳を傾けないからである。世界において、コロナ禍にあって評判を上げている政治リーダーは、必ずといってよいほど多方面からの声を尊重している。ドイツのメルケル首相は感染症についての専門家の意見を踏まえながら経済再建の道を示そうとしており、その政治姿勢が評価されている。ただやみくもに専門家の意見を聞き、従うというのではなく、矛盾する政策間の調整をどのように行うか、ということに腐心しており、そのプロセスが十分な透明性を伴って明らかにされている。人への、そして国家への信頼というのは、そのような真面目な行為の積み重ねがあってこそ醸成されるものだ。国内政治や対外関係において間違いがあったり、意見の食い違いがあったりすること、それ自体を政治家が過度に恐れる必要は、実は全くないのである。むしろ、恐れるべきは、そのプロセスを人々に隠そうとすることだ。そして、マスコミも、政治行為を何から何まで悪く評価しなければならないということはないのだ。是々非々の精神で、良い行いは良いと、正々堂々と国内外に発信すればいい。
おわりに―転機の受容をポジティブに
いろいろと思うところを述べつつ、少々楽観的かもしれないが、良い変化の兆しは既に国内から生まれてきているように思える。これまで離れていた政治と社会との距離が、「ニュー・ノーマル」なライフスタイルのおかげで有意義に縮まってきているように感じるからである。今後、国内の変化がより建設的な国際関係上の変化へと発展していくことを期待したい。最後に、ふと思ったのだが、この機会に人との快適な距離について考えた日本人も多いのではないだろうか。テレワークは慣れない環境で大変なところもあるが、それでも、出勤の苦労がないという意味では快適だ。やはり、十分な光も取れない都会での住まいや満員電車での通勤という環境はつくづく非人間的だと思う。それに、離れていてもある程度の意思疎通ができるということを発見できたのは良いことだ。筆者は既に、日本各地だけでなく世界各国でのウェビナーに参加しているが、飛行機で移動しなければならなかったときに比べて格段に容易に研究環境が整う状況は素晴らしいと思っている。そろそろ一極集中への信奉から抜け出し、美味しい空気と美しい緑に溢れた地域で刺激的な仕事に恵まれるような環境の大切さに一人でも多くの日本人が目覚めてほしい。と切に願う次第である。
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<寄稿者プロフィール>
岡部みどり/Midori Okabe
上智大学法学部国際関係法学科教授。国際連合大学Academic Programme Associate (Peace and Governance Programme)、ケンブリッジ大学国際関係研究所客員研究員などを経て現職。また、この間、オックスフォード大学移民研究所(COMPAS)客員研究員、ジョンズホプキンス大学政治学部客員研究員などを歴任。
東京大学大学院総合文科研究科国際社会科学博士課程修了。博士(学術)。専門は国際関係論、人の国際移動研究、地域統合(主にEU)研究。
主な著書・論文に、岡部みどり編著『人の国際移動とEU—地域統合は「国境」をどのように変えるのか?』法律文化社(2016年);「欧州移民・難民危機とEU統合の行く末に関する一考察」『国際問題』No.662 (2017年6月); “Beyond ‘Europeanisation beyond Europe’ – the EU-Asia Dialogue on Migration as an Alternative Form of Cooperation,” in, S. Carrera et al. eds., EU External Migration Policies in an Era of Global Mobilities: Intersecting Policy Universes, Brill Nijhoff, 2018などがある。