福島県太平洋岸の通称「浜通り」にある、いわき市湯本温泉の旅館「古滝屋」に2021年3月12日、「原子力災害考証館 furusato」がオープンした。双葉町に作られた「原子力災害伝承館」とは、全く別なものだ。(1)
3月12日は、大地震と津波に襲われた東京電力福島第1原子力発電所の1号機が水素爆発を起こした日である。(2)
原子力災害考証館 furusatoは、「原子力災害の教訓を残したい」と、古滝屋の社長・里見喜生さん(52)らが企画、資料の収集を進めてきた。里見さんは、考証館の会場をどこにするかを考えたが、結局自分が経営する旅館のなかにすることに決めた。
「原子力災害考証館」が旅館のなかにあることによって、宿泊客が気軽に立ち寄ることができ、事故を再確認させる働きをするにちがいない。素泊まりプランは安いから、湯につかり、資料を読み、また湯につかる。そんな数日があってもいいのではないか。もちろん日帰り入浴も可能である。©Okuda
「古滝屋」は1695年(元禄8年)創業の老舗旅館で、14階建て60の客室をもつ。しかし、東日本大震災で大きな被害をうけ、予約はすべてキャンセルとなった。再開後も、東京電力福島第1原子力発電所とは50キロ離れているにもかかわらず、風評被害もあって客足は戻らず、震災前の半分以下で厳しい経営が続いている。客足が落ちたこともあって、里見さんは、宴会場として使っていた約30平方メートルの部屋を、思い切ってギャラリーに改装した。
問題がないわけではなかった。原子力発電所の存続については、賛否両論がある。さまざまな考えを持つ方々をお客さまとして迎える立場からすれば、どうなのか。しかし、里見さんは「原子力災害は、問題が多岐にわたり、それぞれの問題が非常に複雑で、立場により様々に解釈される。しかし、未来の教訓とするためには、事実を伝えなければならない」と、双葉町の公的な資料館とは異なる、一般被災者の立場からの伝承の場づくりを目指すことで、宿泊客の理解も得られると考え、決断したのである。
展示品は、原子力災害関係の書籍や資料などがメインだが、筆者の目を引いたのは、東京電力福島第1原子力発電所近くの大熊町(3)で、地震で倒れた樹木などの下敷きになり6か月後に遺体の一部が発見された小学生1年生の被災現場の再現である。遺族が保存していた現場の樹木などをそのまま使い、写真をもとに復元している。
©Okuda
父親の嘆きの手記が添えられている。放射能が来るから逃げろと言われ逃げたが、あとで助けを求める声を現場付近で聞いたと話す人があり、娘だったかもしれない、原発事故がなければ助けられたかもしれない、と無念の思いを綴っている。
「わが店に売られしおもちゃのショベルカー大きくなりてわが店壊す」
事故後6年間は避難指示が継続されていた浪江町(4)出身の歌人、三原由起子さんの詠んだ短歌である。短歌を書いた色紙のうえに、おもちゃ屋さんだったかつての実家と、その実家が大型ショベルカーで取り壊されている風景の写真が対比されている。三原さんの実家は、地震で壊れたのではない。原子力発電所の事故による放射線で立ち入り禁止になり、長年放置されていたために、取り壊されることになったのである。
このほか、展示品の中には、原子力発電所の解体作業に従事した人に配られた作業注意書や、補助金の受け取り方の指南書など、一般の人にはお目にかかれない展示物もある。
原子力災害考証館 furusatoでは、ゆっくりお茶を飲みながら、展示資料を自由に閲覧できる。原子力災害の教訓を伝える書籍や論文、DVDや映画もあり、視聴することもできる。今後は、勉強会や意見交換会の開催、原子力発電所の事故で大きな被害のあった福島県双葉郡を中心とする「furusato考証ツアー」の実施などを計画している。
原子力災害考証館 furusatoのパンフレット 許可を得て掲載
入館料は無料だが、今後の運営と展示品の充実をはかるために、事務局の役割を果たす「一般社団法人ふたすけ」が寄付金を受け付けている。
原子力災害考証館 furusatoには、「誰もが二度とふるさとを失わないように、誰かのふるさとをずっと守り続けられるように」との思いをこめたと里見さんは言う。「人は、目の前の何かを失ったとしても、引き継ぐべきものがあれば、現実に立ち向かっていける」と里見さんはこの10年の経過のなかで感じている。
東京電力福島第1原子力発電所の事故から10年、2021年3月には事故を風化させまいとメディアはさまざまな視点から多くの事象を伝えた。しかし、福島県浜通りの人々にとって風化はありえない。避難した多くの人たちは故郷にいまだ戻れず、数十年かかる原子力発電所の廃炉作業も続いている。
2021年3月25日、東京オリンピックの聖火リレーが「復興五輪」を掲げて、楢葉町と広野町にまたがるスポーツ施設「Jヴィレッジ」をスタートした。
「東京オリンピックが決まった2013年、私の周囲や福島のメディアでも喜びの声は聞かれなかった。『被災地を無視して中央で勝手にやっている』というのが多くの思いだったのではなかろうか」、「『復興』など全くしていない地に住むものとして、『復興五輪』というまやかしには対抗していきたいと思っている」と、被災地の高校教諭、渡部義弘さんが『3.11を心に刻んで2020』(岩波書店)に書いている。1年以上が経つが、渡部さんの気持ちは変わっていないだろう。
原子力発電所から30キロのいわき市久之浜町。原子力発電所の事故で、いわき市で唯一、自主避難要請が出された地区である。避難要請は40日後には解除されたが、震災の記録が展示されている「久之浜・大久ふれあい館」で、ボランティアの老紳士が筆者の問いかけに答えながら、突然に涙ぐんだ。あとは言葉にならない。浜通りの人々にとっては、まだ災害の日々が続いている。
©Okuda
- 公的な資料館としては、20年9月に双葉町に開館した「東日本大震災・原子力災害伝承館」があるが、展示や語り部の話す内容について国は東電の責任を追及しないよう求められている等の点が問題視されている。
- 東京電力福島第1原子力発電所の1号機の爆発は15時36分、映像は地元の福島中央テレビが15時40分に地元向けに放送し、16時50分に日本テレビ系のNNNが全国ネットで放送し、総理大臣官邸が初めて事態を知った。爆発映像は世界に配信された。
- 東京電力福島第1原子力発電所が立地する大熊町は原子力発電所の事故から約8年間、全町が帰還困難区域に指定されていた。その後、一部区域の避難指示は解除されたが、2021年3月1日現在、同町に住民登録をしている4,766世帯10,238人のうち、同町内に居住しているのは243世帯285人である。
- 東京電力福島第1原子力発電所から約4キロ。大震災時の人口は21,000人。原子力発電所の事故で住民は各地に避難を余儀なくされた。6年後に一部地域に限定して避難指示が解除されたが、2020年12月現在の居住者は約1500人。
トップ画像:©原子力災害考証館 furusato 許可を得て使用