世界中で右派ポピュリズムの嵐が吹き荒れた2025年。SNSのアルゴリズムと「選挙」制度の盲点を突いて、社会の一部に強烈に支持される政党や政治家が傍若無人にふるまった。「選挙」は市民社会の代表を選んでいると言えるのか。特に日本では、政治家は、票を入れてくれる団体や大口献金する企業ばかりを見ていて、お金も組織票もないおとなしい市民のために、議会でまともな議論をするつもりはないらしい。筆者はすでに2025年春に「民主主義を壊しているのは選挙?SNS?」を書いているが、それを加筆修正して寄稿したものをここに転載する。
ベルギーが世界で唯一法制化?
25年秋、内田聖子さん率いるNPOの講演シリーズで「くじ引きによる熟議会議」について話す機会をいただいた。民主主義の危機が叫ばれて久しい。18世紀後半~19世紀にできた近代民主主義の制度は、20世紀にはすでにその欠陥が露呈し始め、1980年代には欧米の研究者たちの中から、選挙を補完するための抽選による市民代表選出や熟議による民主主義(deliberative democracy)が提唱されていたらしい。2000年代に入ってからは「熟議の波」と言われるほど、世界各地で様々に試行錯誤されていたというが、筆者がそれを知ったのは、25年2月、このテーマに詳しい徳田太郎氏(法政大学客員研究員)からコンタクトされたことがきっかけだった。聞けば筆者が住む欧州の小国ベルギーは、抽選で選ばれた市民社会の代表が熟議して立法に寄与することを法律で制度化した世界で唯一の国として、この筋の研究者から注目されているというではないか。この目立たない国が? 徳田氏から指南を受けて、世界各地の、そしてベルギー内でのその試みをちょっと深掘りしてみることになった。
議会は「社会の縮図」足りうるか
米トランプ大統領の再選などで、普通の人でも「民主主義は壊れている」と感じるようになった昨今だが、現行の議会による間接民主主義の制度は、たかだか200年の歴史しかないし、欠陥だらけなのもうなずける。まずは、女性やマイノリティの参政権が求められ、その後は選挙による議会に市民の直接参画を補完する仕組みとして公聴会、パブコメ、陳情、請願、参考人招致などの仕組みが工夫されていった。行政監視のオンブスマン制度や裁判における市民陪審員制度も、こうした流れの一環としてとらえられる。
こうして80年代に「議論」や「討論」とは異なる「熟議」という概念が掲げられ、ドイツでは「プランニング・セル」、デンマークでは「コンセンサス会議」、フランスでは「国民会議」、アイルランドでは「市民会議」などの会議体が盛んに試された。こうした会議体で議題となるテーマは、たとえば、地元の都市計画、遺伝子組み換えなど革新技術の取り入れ、生命倫理に関する法改正、同性婚や中絶などに関する憲法改正など、市民生活への関わりが甚大で、議員だけに任しておけないと感じられる案件だった。

だがちょっと待ってほしい。選挙で選ばれた議員による議会は「社会の縮図(ミニパブリックス)」を構成し、スキルある議長によって全うな議論が重ねられて意思決定に至るというのが議会制民主主義の大前提ではなかったのか。でも、現行制度では、女性、学生、障がい者、低所得者、外国人などは代表されにくいし、政局、世襲、昨今ではSNSのアルゴリズムに強く影響されて、議会は「社会の縮図」とはかけ離れたものになる。官僚が事前準備した答弁を読み上げるだけの質疑や多数派による強行採決を中継で見ると、スキルフルな議長による熟議の末の意思決定でないことは誰の目にも明らかだ。
日本でも、立候補の供託金が高すぎる、女性議員が少なすぎる、地方自治体議会は成り手がなくて無投票当選が多発などの問題もあるし、そもそも市民の政治への関心が弱くて投票率が低すぎること、議論する教育や風土がないことなどもあって、欧米に模して近代化・民主主義制度導入はしてみたものの、所詮馴染まないのではないかとの疑問もある。対策として、少年議会、女性模擬議会、政策サポーター会議などを試す地方自治体も出てきたが、誰がどこの予算でこの会議体を運営し、どうやって参加者を選び、どう熟議し、どう政策決定に生かしていくことを義務付け監視するのかという点があいまいで、恒常的に参加意欲を維持し継続することができずに立ち消えた例も多いようだ。
くじ引き≠テキトー、熟議≠討論
ところで、「くじ引き」と聞くと「テキトー」と同義に聞こえないだろうか。「熟議」と聞いて、「討論」や「論破」とどう違うかわかるだろうか。
多少なりとも統計学をかじったことのある筆者は、人口統計学でいう無作為二段階抽出が、商店街のくじ引きやテレビの街頭アンケートのような「テキトー」とは一線を画す学問上の方法論であることは知っている。ここでいう抽選の目的は、精密な「社会の縮図」を作ることだから、その「市民社会」を構成する大人の全数リストを元にしなければ意味がない。第一段階は無作為抽出し、第二段階では、人種、年齢、年収、教育レベル、居住地域など、人口統計学的観点から厳選した社会属性ごとに抽出して、必要とされる応諾者のプールを得ることが学者の指導で厳正に行われる。
熟議についてはどうだろう。昨今、日本人は「ディベート」能力を磨かねばならないとされているが、ディベートは他者を自分の考えに納得させることが目的だ。一方、岸田元首相の十八番だった「車座対話」は、他者の考えに傾聴して理解を共有することを目的とする。これに対し「熟議(デリベレーション)」は、人々の間で共通の基盤を探り、選択するために皆で考えることと定義される。このプロセスには、熟練したファシリテータの介入が必須で、正確で十分な情報が提供され、時間をかけて皆で学び、話し合って政策決定者に提言するために意見をまとめることを目的とする。相手を屈服させることが目的のディベートや論破、聴いて共感すればよいという対話(ダイアログ)とは異質な営みだ。
地方議会レベルで法制化
ベルギーで法制化し、実施されている「抽選による熟議体」は、実は国会にあたる連邦議会レベルのものではなく、地方議会レベルのもののみだ。ベルギーは人口1176万(東京都より少なく神奈川県よりやや多い)の小国で、三つの地域政府と三つの言語共同体から成る重箱構造で地方自治が極めて強い。そのうち、ブリュッセル首都圏地域政府(人口約13万人)、南側約半分のワロン地域政府(約365,000人)、南東部ドイツ国境沿いのドイツ語共同体政府(約7万人)で、抽選による熟議体が制度化されている。ブリュッセル首都圏ではまたこれとは別に、環境局が実施する気候市民会議も法制化(トップ写真はその第三回の報告書)されている。
2000年代に入り、ベルギーでは、市民主導で、政治家、官僚、企業人などを混ぜ合わせた会議が開催され、議会に政策を提案することが試されていた。その後、国政選挙後に2年近くも連立政権が樹立できない事態に至り、しびれを切らした市民有志が600人の市民会議を組織して、国の政策ビジョンと優先順位を連邦議会に突き付けた。その頃、ベルギーの著名な政治学者が反選挙・参加型デモクラシーを提唱したことが、その後の法制化に理論的バックボーンを与えたという。それは、ちょうど、気候危機意識が高まり、Z世代の積極的な政治参加が緑の党を押し上げた時期と重なった。2018年~2020年にかけて、各地域議会で抽選による熟議会議設置の法案が採択され、専門の学者たちの力を借りて綿密な制度設計が進められた。あいにくコロナ禍で実施が遅れたが、二四年には各地域政府で実施にこぎつけた。


それぞれの制度についての詳細を述べるのは、別の機会に譲ろう。厳密には、それぞれの地域政府の熟議会議には多少の違いがある。選挙で選ばれた議員と抽選で選ばれた市民代表が一緒に一つの会議体に座るところもあれば、市民だけのものもある。抽選をいかに設計・実施するかも重要だが、託児や介護、通訳を公費で補助して、市民の応諾率を高めるための工夫も大切だし、ファシリテータの育成も重要なポイントだ。だが、世界のあちこちで行われているものと比べてベルギーのそれが異なっている点は、法律(地方議会なので条例)によって制度化されており、熟議体から提案された政策提言については、政府が正式にこれを受理して検討し、時間制限付きで採用可否や進捗状況を熟議体や市民社会に向けて公表することが義務付けられている点だ。はい、ご苦労さんで終わらせるわけにはいかない立て付けになっている。成果の検証手続きも制度の中にしっかり組み込まれている。
筆者はベルギーで行われた熟議体について参加者、運営担当者、学者らに直接取材したが、今のところ、市民や政治家からの評価は上々だ。市民たちは、「とても勉強になるよい体験だった。また機会が回ってきたら参加したい」「友人や知人に聞かれたらぜひ参加するよう勧めたい」などのポジティブな反応が多いし、政治家たちも、「立法事実に近い市民の考えを直接聞けて、よりよい政策提言に可能になった」「市民の政治への信頼が向上する」などのコメントが寄せられている。
日本でも可能?
欧州の学者たちは、こうした制度は、選挙による間接民主主義の欠点を補完し強靭にするとしている。日本でも、国政レベルでは、選挙制度や議会運営の欠点は度々指摘され、一票の格差や小選挙区比例代表併用の問題点などテクニカルな是正については語られることはある。だが、議会が「社会の縮図」とはかけ離れていることや、お世辞にも「熟議」とは言えない形式的な審議に陥っていることにメスを入れる話は聞いたことがない。ベルギーという、ぱっとしない小国で、これができた要因は何なのだろう。
まずは、社会の単位が適度に小さかったことではないかと筆者は考える。ベルギーは小さな国だが、そのベルギーですら、連邦議会レベルでは制度化に至ってはいないのだ。実施している地方政府の中では、人口七万人のドイツ語共同体が最もうまく運営し、ブラッシュアップされながら回を重ねている。地方政府なら、市民生活に十分に至近なので、毎日に関わる具体的な課題をテーマにできるし、参加意欲もわきやすい。テーマは市民からも提案ができ、日頃直面する課題が多い。たとえば、地域の交通手段の課題(自転車や電動キックボードの停め場所や無料シャトルなど)、手頃な住宅供給のためにできること、移民のインテグレーション、子供のデジタルリテラシー向上などだ。日本でも、地方自治体レベルで試せそうなテーマばかりだ。

さて、欧米の研究者によれば、「市民の大多数は、政治家や公務員と熟議する機会を望んでいる」というが、日本でもそうだと言えるだろうか。抽選による市民参加の熟議体がうまく機能するには、市民一人ひとりが、投票権があるというだけの「有権者」なのではなく、あらゆる形で意思表明する「主権者」としての自覚と行動力が必須なのではないかと筆者は考える。政治家や行政や司法が、市民の声を聞かなかったとき、ベルギーの普通の人々、つまり高校生や勤め人や高齢者が、誰に頼まれたわけでもないのに立ち上がり、デモやストに参加し、抗議する姿を筆者は何度となく目の当たりにしてきた。地方選挙の度に、近所のおじさんや娘の学校の先生が突然立候補して、地元テレビでかんかんがくがくディベートする様子も見た。この国の人々は、機会が与えられれば、政治的意思決定に参加したいと望んでいることがわかる。
その上で必須なのは、こうした熟議会議の意義や価値を政治家や公務員がしっかり認知し、コミットすることだろう。法律による正式な制度化はそのための第一歩なわけだが、政治家が自らの立法権限を部分的にでも市民とシェアし、手間も予算もかかるやっかいな制度を設ける法案を提出し、採択するだろうか。ベルギーの三つの地域議会では、満場一致で成立させたという。組織票も、まとまった政治献金もできない一介の市民と政治家の間に、まっとうな緊張感が保たれていることに感動すら覚えてしまう。
民主主義の進化形を求めて
「自由民主主義こそが唯一無二の正しい方向で、世界はそれに向かって常に進歩するのだ」と信じた時代は終わろうとしている。民主主義は2010年代にピークアウトして、現在は1980年代頃の状態まで後退しているともいわれる。リベラリズムは弱体化し、ひと昔ならぎょっとするような主張を掲げる権威主義的な右派が勢いを増している。だが、11月にはオランダではロブ・イエッテン氏(39歳、ゲイ公表)率いる中道左派政党が僅差で勝利し、ニューヨーク市では民主社会主義を標榜するゾラン・マムダニ氏(32歳、イスラム系)が市長となって、ほんの少しだがより戻しの兆候も見られる。世界が200年もかけて築いてきた民主主義をそう簡単に手放しはしないのだというように。日本はようやく世界の極右政権の嵐に追いついたが、このまま危ない権威主義に引き込まれるのだろうか。


<初出:「ちょっと深掘りヨーロッパ③ 民主主義の進化形を探って――ベルギーが実践する「抽選による熟議体」は奏功するか」、『言論空間』、現代の理論・社会フォーラム、2025年冬号。許可を得て加筆修正の上、転載。>

