「柚子(ゆず)」君とは、ご存知、フィギアスケートの羽生結弦選手のこと。音とイメージから漢字を当てはめる中国特有のやり方だが、この命名はなんとも絶妙な感じだ。
北京オリンピック村に送られた「柚子」君へのファンレターは2万通。中国語SNSのウェイボ―(Weibo)のフォロワー数は約260万人に上る。
冬季オリンピック開催中、知人のオフィスでは、つけっ放しのテレビ中継に柚子君が出た途端に人だかりができたという。10代、20代の若者を中心に中学生からママ友世代までSNSでも多くの人たち、中でも女性たちが熱心に見つめている。
中国女子を魅了するスピリチュアルなまでの演技(左、2015年世界選手権での銀メダル演技、©David W. Carmichael — http://davecskatingphoto.com/photos_2015_gpf_seniors_men.html, CC BY-SA 3.0、と、中国で出版された翻訳本「羽生结弦 王者之路」(中信出版)の表紙(右)
人気の秘密はアニメから飛び出してきたようなルックスもあるが、それ以上に中国ではまだ新鮮に感じられる自己実現への魅力だろう。
「僕は自分のために滑ることができる」という羽生選手のことばに感動し、「この言葉に、思わず涙が出た」と語る人もいる。「リンクの上の彼は高貴で孤独。自己実現のために邁進する姿に感動した」というコメントも寄せられている。
「成果至上主義」がアッケラカン!の中国社会では結果を出してナンボだ。10年前、我が子が公立小学校のクラブ活動に入ろうとしたら先生に「賞が取れなければ意味はないでしょ。入れるのは賞が見込める子どもだけ」と門前払いを受けた。
そんな成果至上主義・功利主義的空気に違和感をもつ中国の若者は少なくない。だからこそ「国のため」でも、「メダルのため」でもなく「自分のために滑る」と言い切った羽生選手の言葉に若者たちは涙するのかもしれない。
羽生選手のスピリチュアルで芸術的な世界への共感が多いことにも驚いた。なんと、中国国内でオリンピックの放映権を独占している国営テレビの実況中継にも異変をもたらした。普通なら演技中、途切れなく技術面について実況解説するのが常なのに、羽生選手の時はほぼ沈黙したのだ。中国のファンたちはこれを高く評価して「彼の演技は単なるコンテストではなく、偉大な表現そのものだったから(静かに鑑賞できて良かった)」と拍手喝采。
「実況しない」のがしっくりくる羽生選手の演技に対してこんなSNSコメントもあった。
「重要なのは技術でなく、情感だ。彼は単に伝説のアスリートであるばかりではなく、心の奥にぴんと張った琴線や、薄い氷を豊かな感情で満たす芸術家だ。一種の寂しさを帯びた美をたたえ、まるで、雪か羽毛のように、空を満たして下りてくるかのようだった」というコメントには1万以上の「いいね」が押されて回覧されている。
メダルを何個取ったではなく、一人の芸術家を鑑賞する所まで入り込んだファンがいて、国営テレビもその理解に立って沈黙を選択した!?とすると、いやはや、斬新だ。
人気マスコットのビン・ドゥンドゥン。お隣の「シェ・ロンロン」はパラのマスコットで中華ランタンをモチーフにしたらしいが、影が薄い ©Junko Saito
お上からは中性的な芸能人禁止令まで飛び出す今日の中国で、個人の美意識を究極まで勇敢に追究する柚子君人気は予想以上に絶大だ。この国の若者たちは確実に変化している。