今回のコロナ禍への対応でその底力を見せてくれたのはやはりドイツだと思う。ほとんどの日本人が知らないまま今日に至る、第二時大戦直後、東欧に残っていたドイツ人の帰還のこと。満州から引き揚げた日本人への対応と比較する鋭い論考に引き付けられた。ドイツや日本の子どもたちを教育の現場で見ているフックス真理子さんのリポートを紹介したい。
<3月18日、多くの人々を聞き入らせたスピーチを行うメルケル首相> 写真:Presse- und Informationsamt der Bundesregierung
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日本でも、コロナ対応のために緊急事態宣言が発令された。私は今、海外在住者として、その成り行きを注視している。一方、日本でも、世界各地のコロナヴィールスによる劇的な社会の変貌があれこれと報道されている。それを日本の人々がどのように受け止めているか。コロナ禍における日本と海外の違いを、どれほど日本人が理解しているのか、私はそれにも興味をもっている。海外とここに書いたが、私は自分が今住んでいるドイツの場合と比較せずにはいられない。そして、その違いからさらに想起するものがある。ここでは、そのことについて、少し書き記してみたい。
「民主主義」が3回も出て来たメルケル首相のスピーチ
感染が広がる中で、ドイツにおける国のありかたを決定づけたのは、やはり3月18日のメルケル首相の国民に対するスピーチだった。これは第二次世界大戦以来、初めて直面する深刻な危機であり、力を合わせて乗り越えるべき一つの挑戦であると彼女は述べた。その中には、「民主主義」という言葉が3回も登場した。まさにこの政治体制の中にあるからこそ、私達一人一人の思慮と連帯への意志が必要なのだとも。
<3月18日のメルケル首相演説(英語字幕付き)ドイツ連邦共和国大使館・総領事館による全文日本語訳はこちら>
このスピーチは圧倒的な国民の支持を得た。と同時に、社会全体の緊張度が急速に増した。学校や幼稚園はすべて休校となる。生活維持に必要な店以外はすべて閉店する。ドイツを代表する自動車産業などもすべて操業停止となる。町では、接触を避けるために、人との距離を取る。これらは、ただ、上からの命令に従うというのではなく、社会に生きる一員としての自覚をもって、自分のできることから寄与しようという意志に基づいているようにみえる。
迅速で寛容な支援策
しかし、当然のことながら、閉店やサービスの停止によって、膨大な数の人々の生活が脅かされることとなった。とりわけ旅行関連会社の損失は計り知れなかった。これらすべてに対して、連邦議会があっという間に過去最大規模の経済支援政策を、ほぼ満場一致で決定した。企業ばかりではない。失業した、バイトができなくなった、店が開けられないので、売り上げがゼロになった、タクシー運転手で客が来ない。そういう人たちが大挙して、この支援金を申請した。議会でこの点が何度も強調されたように「お役所仕事ではない」驚くべき速さで、申請してからわずか二日後には、5000ユーロ(60万円)が振り込まれるという、実に頼りになる支援だった。また、家賃が払えない賃貸人を退去させてはならないという法律も大急ぎで成立、矢継ぎ早に、生活者の目線に立った支援策を連邦議会が決めていった。
日本との大きな違いの一つは、ドイツが連邦制国家であることだ。各州の自治が尊重され、こういう危機の折でも、地方の独自的判断に委ねられる。ただし、さまざまな決定は、州間、および連邦政府間で大いに協議した結果である。都市のシャットダウンも、それぞれの地域的特性を考えながら、州政府が主導する。文教行政も州独立だが、まず焦眉の問題は、この春予定されているアビトゥア(高校卒業資格試験)をどうするかであった。今年は試験なしで、高校の単位を取っただけで認めるという提案から、予定通りに試験をするという主張まで幅広く議論されたが、最終的には、州間でも、なんとか共通項と妥協案を見出せた。
市民の連帯の強さ
それにしても、人々の連帯への意志には目を見張るものがある。たとえば、私の住むノルトライン・ヴェストファーレン(NRW)州で、学校が閉鎖になるという通知からその実施日までは、週末たった二日しかなかった。それでも、祖父母はもちろん、近所の人たちやボランティアがかけつけて、「お手本になるような」(WDRニュース報道)支援体制で、行き場のないこどもたちはほとんどいなかったという。いわゆる高齢者などハイリスク・グループに対するお手伝いの申し出が、暮らしの中で飛び交う。買い物代行、声掛け、その他雑事へのボランティアなど。こういうこともあった。筆者の本業は、日本人が多く住むデュッセルドルフの公文式教室の指導者なのだが、転出時期も重なった3月には、コロナ禍のため、大量の日本人生徒が帰国した。それを横目に見ていた、ある、3月末に転出を予定していたドイツ人生徒の父親が、私にメールで書き送ってきた。「あと1か月、4月分の会費を払って、転出を延ばします。それが、私があなたにできる連帯の一つの形だから」。
医者と生活必需品を販売するスーパー以外は閉まる、ということは当然のことながら、すべての芸術活動も停止だ。コンサート、オペラ、演劇などすべてはキャンセル。だが、芸術は社会に必須なものと、これらに従事している人々や施設は、もちろん政府の支援対象になる。もっとも、彼らもただ手をこまぬいて、この支援策に頼っているだけではない。多くのオーケストラがオンラインでデジタルコンサートやオペラの配信を始めた。3月22日(日)18時には、ドイツ全土のプロ・アマを問わず、音楽家たちがそれぞれ自宅でベートーベンの「歓喜の歌」を演奏するというイベントまであった。これはその時のバンベルク交響楽団の映像である。
また、美術館でもオンラインでたくさんの絵画の公開を始めた。ここにその一覧表が載っている。
そして、何より私が驚くべき現象として見ているのは、あのメルケル演説以来、毎日のように、ドイツ人の友だちから面白ビデオやジョークの類が送られてくることだ。ドイツでは、ユーモアの定義を「にもかかわらず笑う」と言う。危機的な状況だからこそ、それを笑い飛ばす。そうすると、物事にのめりこんでいたのが、一歩距離を置いて考えられるようになる。こんなところにも、ドイツ人の強さがあるのだとあらためて感じている。ここにご紹介するのは、教師の友だちから届いたもの。学校が休校になって、親が自分で、こどもたちの自宅学習の面倒を見なければならなくたったことへの皮肉。
こういう状況がドイツでしばらく続いているうちに、EU内でイタリア、スペイン、フランスなどで医療崩壊が起き、悲惨な事態となった。ドイツは近隣国の重症患者を、ドイツ国内に搬送して治療に当たる援助も始めた。また、バカンスに出かけて、戻れなくなったドイツ人を、空前規模のチャーター機を送ってドイツに帰国させた。自国の人々を見捨てず、これだけの国費をかけるということに私は驚いた。
「あのとき」を追体験しているのではないか
刻々と目に見えて、死者や感染者が増え、悪化していく状況、スーパーからトイレットペーパーや保存食であるパスタ類がどんどん消えていく様子、少しずつ増えていく人権の制限。前線に立って戦う医師たちに加える、予備役の医師や医大生の募集。そうだ、きっと「あのとき」もこのようにして始まり、進行していったのではないか。うちの息子一家は悲惨な報道の続くニューヨークに住んでいるのだが、米独がそれぞれ国境閉鎖をすることによって、もはやニューヨークを脱出してドイツに帰国できなくなった。避難の判断を先延ばしにしたのがたたった。そう、あのとき、どれほど多くのユダヤ人が、脱出のタイミングを考えて悩みぬいていたことか。あのとき。80年前に起きた戦争。私たちは今、その時代を追体験しているのではないか。
そういう思いでドイツ国内の様子を毎日見ていて、私には一つ思い起こされることがあった。そのきっかけになったのが、昨年秋、長野の満蒙開拓平和記念館で行ったシンポジウムである。「対話から学ぶ歴史と未来―日本とドイツの引揚者・帰国者の戦後」というタイトルで、私はこの催しにコーディネーターとして積極的に関わった。戦後、満州を始め、日本が支配していた地域から人々が引き揚げてきた。日本ではあまり知られていないが、同じく、ナチスドイツが領土としていた東欧からも、1200万人に上るドイツ人が追放され、避難し、ドイツに帰国した。途上で命を落としたドイツ人は200万人と言われるほどの甚大な被害だった。実は、この戦後引き揚げは日独両国で驚くほど似ているが、ここ数年で、ようやくその比較研究が緒についたばかりである。このシンポジウムは、当事者である被追放者・後期帰国者のドイツ人女性3人と、日本の満蒙開拓団・中国残留帰国者との対話の場であった。
催しを通して、日独の酷似した状況にもかかわらず、日本人の私にはっきり見えてきたことがある。それは、戦後引揚が、ドイツと比べて、どれほど日本人にとって孤立無援の過酷なものであったかということだ。いや、満州の日本人を当初は現地に残そうとした日本政府の方針に、それはすでに明らかになっていると言えるだろう。国策として大陸に渡った彼らを、簡単に棄民とするありかた。米軍の支援でようやく日本になんとか引き揚げてきた彼らを、多くの場合、故郷では満州帰りと差別していたし、帰ってきた彼らには、もはや荒廃した土地を耕す、いわゆる戦後開拓の地しか定住地が残されていなかった。また、引き揚げられず、中国に残留した日本人がようやく帰れるようになった70年代以降、彼らが日本に移住するためのハードルも高かった。
一方、ドイツでは、東欧からの引き揚げ者は、空襲被害者と同じく、社会全体で一人一人の被害を分担して担うという法律「負担分担法」によって、ある程度の財政支援を得ることができた。このおかげで、生活基盤を立て直せたというドイツ人は多い。また、諸事情により、現地に残ったドイツ人は、その間に冷戦となり、東欧からの大量帰還が始まるのは、ようやく冷戦後。彼らは単に自分が「ドイツ民族」であるという自認性だけで、誰でも受け入れてもらえた。当時、チャウシェスク政権下にあったルーマニアでは、ドイツ政府が一人ずつ、出国のための「人頭税」を払い、帰国させたほどだった。
ただの一人も社会から見捨てない決意
私には今、このコロナ禍をめぐって見えているドイツと日本の状況が、この戦後引揚とかぶって見えてならない。社会が個人を本当に支えているかどうか、その社会に個人が参画しているかどうか。日独の根本的な違いは、メルケル首相が演説の中で、3度も言及した民主主義が、本当に政治システムとして機能しているか否かにある。社会が個人の総和であるという認識、即ち、ただの一人もこの社会から見捨てるべきではないという決意が、あるかないかなのだ。日本中を闊歩している「自己責任」という言葉が、どれほどこの認識から遠いところにあることだろうか。問題を社会全体で引き受け、分担することによって、一人一人の負担を減らすという考え方は、ひどい目に遭ったら、それはその人の不運にしかすぎない、いや、そのような目に遭うようなことをした方に問題があると見る見方の反対の極にある。会社だとか、学校だとか、家族だとか、小さなグループに生きている日本人は、社会全体が見えていない。たとえ熱があっても、会社に出勤することが至上命題で、通勤途中で人に感染させようが、それは二の次だ。戦後75年、結局、日本の学校教育の中で社会や民主主義の意識は育てられないまま、今に至っている。コロナという大波が押し寄せてきたとき、その違いがたちどころに、露わになる。これがドイツから見ていて、どれほどもどかしいことだろう。
人々が、不安なまま、季節は変わる。NRW州では、生活をともにするパートナーは一緒に散歩に出ることが許されている。行き交う人々との距離を保ちながら、陽光の中に出る。この季節、ドイツになくてはならないもの、それは白アスパラガスだ。その収穫には、通常は主として東欧からの季節労働者が当たる。今年は、国境閉鎖により、入国できないと危ぶまれたが、政府は緊急に農業支援をすべく、彼らにのみ、入国審査を簡素化した。お蔭で、ほぼいつも通り、白アスパラが店頭に並ぶようになったのである。
世界は、刻々と変わりゆく状況のただなかにあり、まったく予断を許さない。しかしせめて、マスク2枚を配布するとか、和牛振興券とか、ただ発令することに意味があるような緊急事態宣言とか、日本のコロナ対応が、世界全体から見て、本当に異常なことだと認識されてほしい。
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<寄稿者プロフィール>
フックス真理子/ Mariko Fuchs
1953年東京生まれ。上智大学大学院史学専攻博士前期課程修了。デュッセルドルフ ハインリッヒ・ハイネ大学教育学専攻博士課程修了 (Dr. phil.)。公文式デュッセルドルフ・オーバーカッセル教室・メアブッシュ教室指導者。神奈川県公立中学校教師・英語塾経営などを経て、結婚を機に1986年にドイツに渡る。著書に「ニッポンの公文、ドイツの教育に出会う」(筑摩書房)、「Ewig Üben, Die Pädagogik des Zenmeisters」 (Waxmann Verlag)、訳書にKakichi Kadowaki「In der Mitte des Körpers」 (Kösel-Verlag)。
<WAN=Women’s Action Networkのホームページに掲載された記事より、執筆者の合意を得て、若干の加筆・修正を加えて転載>
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