このシリーズでは、映画と音楽をこよなく愛する者として、またドイツに長く住む者として、ドイツの映画と音楽の新作、注目すべきアーティストなどを、筆者なりの視点で紹介していきたいと思う。第1回は、いま絶好調の2人の女優、ザンドラ・ヒュラーとレオニー・ベネシュの「まなざし」について。
三白眼の向こうの深淵 ザンドラ・ヒュラー
白目がちの人に接するとき、私たちの第一印象は、通常はあまりポジティブなものではないと思う。白目は、冷たい無関心さを感じさせる。もちろん、その人物とさらに知り合ううちに、印象を自分の中で訂正することもある。でも、その人が俳優であり、作品の中で架空のキャラクターを演じる場合には、外見が与える印象がかなり決定的になる。
いまドイツで最も評価されている女優ザンドラ・ヒュラーをスクリーンで見るとき、私はいつも彼女の切れ長の、白目がちの目の威力を強く感じる。たとえば、アカデミー賞国際長編映画賞を受賞した『関心領域』(2023)。ヒュラーはナチス政権下のアウシュヴィッツ強制収容所の所長ルードルフ・ヘスの妻、ヘートヴィヒを演じた。その支配的な性格から「アウシュヴィッツの女王」と称されていたヘートヴィヒが、ガス室に送られた収容者が遺した毛皮コートを試着し、ポケットに残っていた口紅を自分の唇に塗ってみるシーン。自分と家族のことだけを考え、塀のすぐ向こうの大量殺戮システムを完全に無視していた女の、冷酷というより完璧な無関心さは、何よりもヒュラーの三白眼から発散されていた。

遡って2016年、世界的なヒット作となった『ありがとう、トニ・エルドマン』では、キャリアに没頭するコンサルタントのイネスを演じ、娘を案じて出張先に出没する父に対する怒りと苛立ちを、上目づかいの目の奥に押し殺していた。アカデミー賞主演女優賞にノミネートされた『落下の解剖学』(2023)では、自宅の窓から落下した夫の死が自殺か他殺か事故かをただ一人知り得る人物として、観客には最後まで読み切れない心理をその目に潜ませた。
ヒュラーは東独チューリンゲン州の出身。舞台で頭角を現し、映画に進出してからはその演技力で出演作を次々と話題作、ヒット作にしていった。来年公開予定の米映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』ではライアン・ゴズリングと共演、ハリウッドでの存在感をますます強めている。映画と並行して舞台活動も続け、ボーフム市の劇場では昨年ミュージカルに、今年は東独ハレ市の劇場で初めて監督業にも挑戦。大胆に、精力的に表現分野を拡大するエネルギッシュな人なのだ。
ヒュラーと共演した男優のひとりは、「彼女が役作りをするときは、役に関わるすべての要素を怖がらずに自分の中に招き入れている感じがする」と話している。彼女の静かな三白眼は、エネルギー渦巻くブラックホールだ。私たちはその深みに否応なく巻き込まれて、ヒュラーから目が離せなくなってしまうのだと思う。
ひたむきで無垢な瞳 レオニー・ベネシュ
瞳の印象がヒュラーの対極にあると言えるのが、レオニー・ベネシュだ。大きな丸い、可愛らしい瞳で、信じるものにのめり込み、とことん自分を捧げるひたむきな役柄を演じて際立つ女優である。ベネシュもこのところ世界的なヒット作で注目され、ドイツ映画界を代表する俳優のひとりになった。

ドイツ発の長寿シリーズ『バビロン・ベルリン』では、1920年代ワイマール共和国の下、恩人である行政長官の私邸にメイドとして雇われながら、愛する恋人にそそのかされて長官暗殺に加担してしまうグレータを演じた。丸い瞳とメイド服の白い襟が、グレータの一途さを引き立てていた。『ありふれた教室』(2023)で演じたのは、校内での盗難頻発の真相を解明するため、パソコンで職員室を盗み撮りしてしまう正義感の強い女性教師カーラ。本当は良くないとわかっていながら、真実を突き止め事態を改善したいと願うカーラの強い思いを瞳ににじませた。
『セプテンバー5』(2024)での役柄は、1972年ミュンヘンオリンピックでのイスラエル選手団人質事件を報道する米ABC放送付きの通訳者マリアンネ。スタジオという密室と時々刻々と変わるストーリーの緊張感は、どんな事態からも焦点を外さないベネシュの瞳に集約されていた。そして最新作のHeldin(「ヒロイン」の意、日本未公開)で演じたのは、介護士フロリア。スイスの病院を舞台に、26人の患者をたった2人の同僚とケアする夜勤の一日を全身で演じている。病で心の余裕を失った患者たちと、時間とスタッフの不足に悩む介護士の間の緊迫しがちな人間関係を、それでも人間的な営みに維持しようとするフロリアの心構えは、処置中に必ずひとりひとりの患者をじっとみつめるベネシュの目に表れていた。
ベネシュは幼い頃から女優を志し、「全身全霊でこの仕事をしたかった」と語っている。「自分自身を実現したいという衝動はそれほどありません。私にとって演技とは、芸術に奉仕するとか、自己実現するとかではなく、改善していかなければならない技術です」と言う。この職人魂には、しかし、いつも一途で無垢な瞳が寄り添っている。それが作品の中で悪意に満ちたものに転じてしまう日も、いつか来るのだろうか。


